2013年9月11日水曜日

時事音痴番外編/福島記9

 ある時、水木しげるのエッセイを読んでいたら、長年の疑問が氷解した瞬間が訪れた。

 現地の人は、アボガドを「潰して」、他の食材とあえて食べている。
 水木しげるは料理研究家ではないので、なにと混ぜるとかこまかいことは書いていなかったけれど、

「こ、これだー! さすが現地の人の使い方は違う」

と感動して、インスピレーションが訪れるたびに適当なアボガド料理を作っては出していた。
 アボガドが福島県白河市において発売になったのは、記憶に間違いがなければ、わたしが中学二年ぐらいのときである。
 ちょうど姉が東京の大学に行っていて、噂だけは耳にしていた。

「東京ではアボガドっていうフルーツみたいのが売ってて、割ってわさび醤油で食べると、トロみたいで美味しいんだから」

 さてそのアボガドが、地元福島のイトーヨーカドー白河店(正しくはヨークベニマル。地元資本と合体したのである)でも発売になった。チラシの広告。さて買ってみましょうかということになり、イトーヨーカドー白河店に足を運んだ。
 すると、響き渡る店内放送の声。
 イトーヨーカドー白河店店長が、やっきになって拡声器でわめいている。

アンボガドは(アボガドは)、ほいちょで(包丁で)、ふだつに割っで(ふたつに割って)、さどを(砂糖を)かけて、お召すぃ上がりください」

 大量に入荷されてきたアンボガドを売りさばこうと必死の店長。連呼・連呼。


「アンボガドは、ほいちょで、ふだつに割っで、さどをかけてお召すぃ上がりください」


 もう、アボガドを持つ手が震えて、笑いをこらえるので。
 これは憶測だが、たぶん真相だろうと思う。イトーヨーカドー本部から、「白河店でもアボガドを売れ」という指令が飛んできた。
 さて物が届いた。

 店長、これを見た目で「南国の果物だろう」と推察。
 ほいちょでふだつに割っでみた。
 匙ですくってたべてみた。
 脂っこいばかりで、全然、甘くない。
 仕方ない、これはさどをかけるしかねえっぺ!
 というわけで。
 謎のレシピを考案して、店内放送で流した。

「アンボガドは、ほいちょで、ふたづに割っで、さどをかけて」

 mixiの日記でこれを書いたら、 マイミク君からこういうレスを貰った。

「アボガドに砂糖、あながち間違いでもないんですよねえ。 森のバターといいますが、塩抜きなので言い換えればクリームです。これに砂糖と練乳を入れて練ってやると、アイスの素の出来上がり。 凍らせる事はしなくても、そのままディップとして食べちゃいます。グァカモーレのようにしょっぱい味付けのディップもありますしね。にんにく、塩、オリーブオイル、レモンで練るあれ」

 さすが十歳年下で、しかも欧米を放浪していただけあるわ。アボガドの正しい食べ方に精通している。
 このへんは世代間格差だよね。
 しかしな、店長はこんなこと知らなかったと思うぞ。たぶん、連想したのは、「酸っぱいグレープフルーツをいかにして食うか」
だったと思う。
 さてそんな「福島」の5月29日と5月30日を記す試みです。
 期待させてはいけないので予めお断りしておくが、たいした話は転がっていない。
 実を言うと、29日は「いわき市」にボランティアに行く予定であったのだが、前日の午後3時ごろに「雨天中止」となってしまった。

「遠方よりはるばるお越しいただいて大変申し訳ないのですが」

と、電話口で詫びる職員の人。まあ、仮住まいからは確かに遠隔地ではあるのだが(一応、栃木県小山市から住所移転だけを済ませた)、別にわたしが遠隔地から来ていなかったとしても、別にお詫びしてもらう必要ないんだけど。それより、ボランティアに行けなかったことで、なんだか落ち着かない。というのも、今日は地元に残っていた同級生たちが、ボランティアに行くというわたしのために「お疲れ様会」を催してくれることになっているからだ。
 どうしようか。
 という訳で、わたしは所在なく、実家にいた。
 自分の実家の部屋に置き去りにされた漫画などをチェックしていたら、三原順の『XDay』が掘り出された。三原順という少女漫画家は70年代から80年代末にかけて流行して、『はみだしっ子』というのが代表作として謳われているが(親からネグレクトを受けたりしていた4人の男の子が放浪して生きていく物語で、元祖・児童虐待物語といえるかも)、実はこの時代すでに「反原発漫画」といえるようなものを描いている。なんとチェルノブイリの事故以前、スリーマイル島の事故の3年後に「Die Energie 5.2☆11.8」という作品を発表している。わたしはこの作品で初めてスリーマイル島の事故を知った。
 わたしの手元に残っていた『XDay』は、壊れて地球に降り注いだソ連の原子炉衛星の破片をうっかり拾ってしまった子供が、蝕まれて亡くなるまでのストーリーが主人公の行動に絡んでくる。
 思春期の頃に受けた影響というものの強さを改めて思い知る。
 そうだよなあ、わたしはまず三原順だとか、それから講談社が出していた雑誌の「Day's Japan」の広瀬隆のチェルノブイリに関する記事だとかで、影響を受けまくったんだよなあ。だから、地球温暖化がどうので原発が追い風だった時代にも、反原発だったんだよね。さんざんバカサヨと呼ばれて叩かれ、無気力になるまでは。
 ま、それはさておき、「福島」にいて、反核漫画などを読み返すのは、正直、くたびれる。三原順自身は反原発派であったと思うが、反原発運動に対しても冷ややかな視線を持つという複雑な精神構造の持ち主であった。それは、ある意味では正しい。というのも、イデオロギーを抜きにして語らないと、反原発はただの政治運動と化してしまう。この問題は、右も左もない。
 人類どころかあらゆる種の生命を絶滅させるほどの力を持つ「核」をもてあそんでいるというのに。
 この国の不幸は、原発が「政治の話」になってしまうところにある。
 だからわたしは

「ああ、屋内退避をしているとはいえ、いまもちっとは“被曝”してんだろうなあ」

と思いながら、懐かしい漫画を読み返していた。三原順は後回しにして、ギャグ漫画ばっかり。絶賛現実逃避である。
 この日の福島には、しとしとと雨が降っていた。雨の翌日は、環境放射能の値が高くなる。毎度のことだ。
 色は無色透明だが、「黒い雨」である。「黒い雨」とは、原子爆弾投下後に降る、原子爆弾炸裂時の泥やほこり、すすなどを含んだ重油のような粘り気のある大粒の雨で、放射性降下物(フォールアウト)の一種だ。それが、静かに福島に降り注ぐ。目に見えない分、余計に性質が悪い。
 
時間が近くなってきたので、鏡を見て、適当にメイク。鏡を覗き込んだら、目が充血しているので、ひやりとする。福島にやって来てからというもの、突発的な目の充血が起きては止み、眼科に行こうかなあと思っていると収まるというのを繰り返していた。あと、歯茎が痛かった。どういう理由でかは、医師ではないので解らない。眼科に行こうと思うと翌日には収まっているし、病院にかかったらいいのかどうか、微妙なところだ。

 屋内で運動をする学童が鼻血を出す報道が全国紙で流れていたのも、たしかこの時期である。
初期被爆の不安は、正直、あった。新聞では

「窓が開けられない屋内での運動のために鼻血を吹く」

とあったが、この時期の福島は熱中症になるほど、暑くない。むしろ涼しいぐらいだ
 
関係があるかどうか解らないところが、被曝の不安である。証明も不可能に近い。
 ええい、わたしに関しては構うものか(被曝こそ青少年に悪影響を与えるのだから十八禁で)。被曝上等。その覚悟の上でやって来た、故郷に。

 時間が来たので約束の場所へと向かう。小雨が降りしきるなか、傘もささずに店に入った。いまこそ井上陽水の「傘がない」であるな。「被災地では、自殺する老人が増えている」「だけども、問題は今日の雨、傘がない」って、70年代を通過したことのない人には、なんのことやら解らないか。いや、井上陽水の「傘がない」という大ヒットソングの替え歌なんですよ。
 店に入るなり、高校時代の友人たちから拍手の渦。わたしの顔を見た友人の第一声。

「お国のために、お疲れ様です!」

 いや。だから服装をよく見ろ。スリットの入ったスカートだろうが。 ヒール履いてるだろうが。こんな格好で瓦礫の撤去なんかできないって。現場は何が転がってるか解らないから、基本、安全靴なんだよ。
 行ってないから、ボランティア。
 しかしなんだかなあ。いろんな意味で、複雑な気分だ。
 ノンフィクション作家、日高恒太朗氏の「不時着」という名著がある。それによると、特攻機に乗ったものの「不時着」してしまった特攻隊員がいたらしいんだな。
 戦争末期、特攻隊員というのはちょっとした花形だったらしいんですよ。
 これから死ぬんだ、という訳で。ご飯なんかもお腹いっぱい食べられるし、せめて一夜を過ごしましょうという女の子なんかも、若干名いたりする。男女関係には厳しいご時勢でも、特攻隊員だけは特別扱いだった。

 わたしのマイミク(mixiでは交流関係にある人をこのように称する)君が指摘していたように、「3.11はいきなり戦争末期」 というのはうまい言い回しだと思う。ないのはひもじさだけで、汚染された食品ならば入手できるし。

 すぐに爆撃などで死ぬのか、じわじわと蝕まれて死ぬのか。
 どちらがいいとか悪いとか言えないと思う。




 4人のクラスメイトが、わたしのために集ってくれていた。
 2人が独身で、2人が子持ちである。

 非常に打ち明けにくかったのだが、ボランティアには行けなかったことを伝えると、仕方がないよというような反応が返ってきた。

「わたしたちも自分の生活で手一杯だもの。行こうと思うだけで偉いよ」

 この辺の会話で知ったのだが、県内の人間でも浜通りは避けているらしい。どうなっているかという質問があったので、見てきた限りのことを伝えた。まあね、誰だって心理的に福島第一原発には近づきたくないよ。
 それからはなぜか原発事故の話題を避けるように、昔話ばかりに花が咲く。あとはいま、どんな暮らしをしているのかとか。近況報告のようなもの。
 しかし、「のぶちん」と呼ばれていた同級生が、 ケータイに保存された子供の画像を見せ始めたので、 思わず告げた。

「おい、のぶちん、のぶちんの子供ならうちの借家で預かるぞ!」

 だけどのぶちんは苦笑するばかりだった。

「あたしがいないと駄目よ、子供たちには」

 のぶちんはよりにもよって、環境放射能と国が言うところの、空間線量の高い郡山市に嫁いでいた。郡山市は1.2μSv/hあたりを推移。高い。

 もどかしかった。

 独身が福島県にとどまるのは、それは当人の判断だと思うんだ、正直なところ。だってわたしたちはみんな四十路だ。わたしは四十三歳、生まれが早ければ四十四歳だ。自然出産は無理な年齢と言える。

 だけど「のぶちん」には子供がいるのだ。
 逃げろよ、と叫ぶように伝えたかった。

「のぶちん」は薬剤師じゃないか。
 君ひとりでも食べていけるほど稼げるじゃないか。子供に君が必要だというのなら、子供を抱えて逃げろ。
 そう伝えたかったが、取り合ってもらえそうになかったので全部を腹のなかに収めた。無力感に襲われた。
 本当に、なにもできない。
 これから起きる不幸に対して。
 飲み会が終わると、Wという同級生が車で送ってくれることになった。
 外は雨。
 霧のような、核の雨。
 わたしともう一人のゆかさんという同級生が送ってもらうことになり、車に乗ると、Wが、

「昔はよく、ゆかさんと車であっちこっちふらふらしたよね」

と懐かしむ。
 車中で、わたしは呟いた。

「うーん、雪割橋が見たいな」

 するとWという同級生が、

「行ってみる?」

と言い出してくれたので、連れていってと頼んだ。

 わたしの故郷、福島県西白河郡西郷村には、阿武隈川が流れている。高村光太郎の『智恵子抄』の「樹下の二人」で、「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川。」と詠われた阿武隈川である。阿武隈川は、福島県および宮城県を流れる一級河川だ。おそらくは今回の事故でかなり汚染されただろう。
 阿武隈川の源流近くにかかった雪割橋は、地元の観光名所であると同時に、自殺の名所でもある。
 霧のような雨が降る、真っ暗な雪割橋から、傘もささずに塗れそぼりながら真下を覗き込んだ。
 Wが、見えない川面に目をやるわたしに教えてくれた。

「2ちゃんにメンヘル板ってあるじゃない。そこに、“これから自殺する人のスレ”ってあるんだよね。(未確認、Wとの会話の記憶のみ)たまたまさあ、わたし、リアルタイムで覗いていたんだけど、雪割橋から飛び降りるっていう書き込みがあって。その子、死んだよ」

 自分に置換して、可能かどうか考えた。橋の上から真下を覗き込んだ。
 真っ暗な、遥か眼下にある見えない川面が怖かった。
 心から、怖かった。 人の命を簡単に奪い取れる力のある高度が、怖かった。
 わたしは明日消えてもかまわない。たったいま消えてもかまわない。けれど、暗闇に身を乗り出して飛び降りる勇気は、わたしにはない。
 実は晶ちゃん(西宮署国賠事件の、あの晶ちゃんです)から情報を貰っていた。スイスには安楽死幇助センター「Dignitas」という施設があり、費用は現在の日本円にして70万ほど。「最悪、70万円とスイスまでの片道切符を握り締めてDignitasだ!」というのは、この時期、ほとんどふたりの合言葉になっていた。そのためにハイパーインフレーションに備えて、地金を購入しておこうかと。生活がにっちもさっちもいかなくなったら、そうやって終止符を打とうぜ、と。
 人間は恐怖に支配されて生きている生き物であると、ある友人は言った。
 恐怖が暗闇に火を灯し、それがテクノロジーの原点となったと。原発もそのテクノロジーの延長にある。
 生きたいから生きているのではない。死を恐れているから生きながらえているのだ、とも。
 だがわたしは死よりも、苦痛が怖い。遥か眼下にある渓流に体を叩きつけられたときの衝撃、脳が飛び散るほどの。それはたぶん一瞬のことだと思うが、そう想像すると怖かった。

「……無理だ。わたしにはできない。怖くて」

 2人が笑った。

「そりゃそうだよ、誰だって怖い」





 また会おうね、絶対だよ。








 地元に残る2人に告げて、車を降りた。
 なんて頼りない約束だろうか。

 どこかで感じている。この2人にこうして会えるのも、最後なのかもしれないと。

嫌な予感。それを振り払いたくて、必死に約束に約束を重ねている自分がいた。
 ああ、人が果たせないかもしれない約束を口にするのは、嘘で人生を塗り固めたいからじゃない。未来が不確定だからなのだ。それでせめてもの安心を望んで、約束を交わすのだ。
 いまもなぜか、雪割橋の見えない川面を覗き込んでいる気分が残る。

 核の雨に打たれながら。真っ暗な、川面を。

時事音痴番外編/福島記8

 国立那須甲子青少年自然の家

 キャンプなどの野外活動を通じて青少年の育成を目指すこの施設、那須というのは栃木県那須郡那須町の地名であるが(全国的には「那須の御用邸」で知られる地名だろう)、実際には那須町に隣接する「福島県西白河郡西郷村大字真船字村火6-1」に存在する。
 5月27日の「福島」を記す試みは、この施設の所長を務める所長の佐藤修氏へのインタビューから始めようと思う。

 わたしは福島に来てからというもの、正式な取材の申し込みをせずに見聞きして歩くばかりで、潜入取材といえば聞こえはいいが、どちらかというと覗き魔になった気分で、大変精神的によろしくないと感じていた。

 偶然の伝手から、佐藤所長へのインタビューが実った。

 この施設であるが、現在は本来の活動を行わず、被災者の避難指定施設として対応している。
 西郷生まれのわたしにとって、記憶のなかの「那須甲子自然の家(当時の名称。現在は“少年”はなく“青少年”であるそうな)」は、「とてもよいところ」であった。初めて訪れたのは、小学校五年のときだったと思う。オリエンテーリングという野外活動のプログラムがあって、地図とコンパスを手に、クラスメイト数名でチームを組んで、林間にあるポイントを探して歩くのである。国立の施設であるから、林間で迷子になったりする心配はないように十分配慮して作られているのだが、那須の緑のなかで、わたしたちは本気で冒険家になった気分であった。林間を探索して、全部のポイントをチェックできたら、ゴールである。先陣を争うのだ。わたしたちは幼いマルコ・ポーロであり、リヴィングストンであり、ダニエル・ブーンであった。
 チームを組んだ4人全員が燃えていた。
 すると仲間にひとり、注意力が散漫な女の子がいて、林間で迷子になった。
 といっても、整備された林のなかなのですぐに発見できる程度の迷子なのだが、この子を捜すので、わたしたちのチームは遅れを取った。

 その子をようやく発見したとき、残る3人は本気で糾弾してしまった。
 その子が顔を覆う力もなく、手をぶらんと下げて、空を見上げてオイオイと泣き出したのを見て、初めて胸が痛んだ。
 他者の心に痛手を負わせたこと。心を殴ってしまったのは自分であること。
 生死をかけた問題でもないのに、どうして楽しいはずの遊びを台無しにしてしまったのだろう。
 少なくともわたしはあれで、なにかひとつ学んだのである。

 福島第一原発で現場の信頼を一身に集める吉田所長の座右の銘は、

「人はタフでなければ生きていけない。優しくなければ、生きる資格がない」

だと言うが、なにかそれに近いものを感じ取ったのである。
 その後も、この一件だけはずっと心に引っかかっていた。
 逆に言えば、わたしはこの施設がどんな設備だかを知っているから、

「ここは避難所としては悪くないだろう」

と推察していた。というのも、大規模な宿泊施設として整備されているし、大浴場もあるし、なんといっても、調理場で作られて出してもらえるご飯が美味しいのである。わたしのクラスメイトの男子などは、ご飯を10杯お代わりするという妙な記録を樹立したほどである。たぶん、食事の美味しさと同時に楽しくて興奮しすぎて、なにがなんだか解らないけれど食べてしまったんだと思う。
 母の車を借りて、那須甲子青少年の家への道を走る。
 相変わらず、那須の新緑は美しかった。
 昭和天皇が、この自然を愛された理由もよく解る。
 陛下がご存命中だった頃は、地元民はよく陛下の避暑に困ったものである。というのも、陛下がルーペ片手に自然観察をされるため、移動のたびに道路が封鎖されてしまうのである。

「遠回りしてもらえませんかねえ?」

と困った顔をして告げる地元の警察官。

「またですか」

と苦笑する地元民。しかしそれは、古き良き昭和の時代の記憶である。
 わたしにもし子供がいて、そしてここまでもが放射性物質で汚染されているという事実さえなければ、どんどん野外活動に参加させてもらって、タフで優しい子供になりなさいと推奨しただろう。
 佐藤所長は、生真面目そうで、それでいて優しい風貌の眼鏡の細身の男性だった。名刺を交換して、過去に那須甲子でお世話になった地元民であるとの簡単な自己紹介をしたのちに、インタビューを始めた。
 まずは最初の質問を振る。いま、こちらにはどういった方が避難してきていらっしゃるのでしょう。

「浜通りの方々が中心で、地震や津波の被害を受けた方々も多いんですが、どちらかというと原発事故で10kmから20km圏内が避難区域ですよとなったとき、そして20kmから30kmは自宅退避か、自主避難ですよという発表があったときに、自主避難してきた方がほとんどですね」

 では30km圏内の方もこちらにはいらっしゃっている。

「ええ、いらっしゃってますね。で、当初は、620名ほど受け入れていた時期もあったんです。ただ、現在は違います。ご家族それぞれが、4月6日までの時点で、学校をどこにするか、子供たちのこれから長いスパンでの居場所をと考えたときに、どこに行ったらいいのかということで、移って行かれました」

 ここで避難民の受け入れ人数の推移グラフを見せてもらった。
 3月13日から、グラフの推移が始まる。三号機の水素爆発が3月12日である。しかし、数はごく僅かである。

 佐藤所長が説明してくれる。

「那須甲子は避難所だということがラジオで放送されたのを聴いたご家族8人が、『ラジオで聴いたんですけど、いいですか』とやってきたのが皮切りです」
 14日も同じように、微小だが増加している。

「14日も同じように、ラジオの報道で。翌日から次から一気に増えるのは、県の災害対策本部で動きがあって、特別養護老人ホームの入居者が、職員と共に、避難してきます」

 あの時期に、だれがどれぐらい被曝したかを把握できる「科学者」などは存在しないだろう。こんな事故が起きる前に読んだことがある。反原発派のサイトなので思想的に多少バイアスがかかっているとはいえ、原発が水素爆発を起こしたら、周辺住民に可能なことは、

「逃げる」

である。他に手段はない。その近隣に居れば居ただけ、被曝する。これは事実だと思う、どうしようもなく。

 ラジオというメディアが、案外強力な力を持っていたのを知った。というか、地元のメディアの力、というか。知っていたか知らないかで、被曝の量はかなり変わっただろう。今回、福島第一原発事故を踏まえた報道を見ていても、全国紙では突っ込まないようなことまで、例えば福島民報という地元の新聞社は取材して報道している。わたしは福島民報が3.11以降に緊急出版した写真集を購入した。写真の撮り方ひとつを見ても解る。「絵になるかならないか」というインパクト重視の全国紙と違って(全国紙だと、津波の被害のほうが「絵」としてインパクトがあるせいか、津波の被害に集中した写真の撮り方になっている)、あくまで地元目線で撮っているから、

「ああ、あの風景がこう変わってしまったのか」

と、地元民なら解るのである。おまけに福島の被害は津波だけではない。地震もあれば、そしてなんといっても原発事故があるのである。また、3.11で交通網がストップしたとき、郡山市に雪が吹きすさんだことまで、地元紙は押さえている。バス停で凍える被災者たちの顔も。





 話を戻そう。数は少ないとはいえ、被曝を可能な限り減らせた家族がいたこと、それは地元ラジオ局の力であると称えたい。
 グラフ上の人数は、3月16日に一気に増えている。これはどういう理由だろうかと佐藤所長に尋ねた。

「16日に増えるのは、あとはファミリーです」

 ご家族で逃げてきた、ということか。
 原発の事故の恐怖に逃げ惑った人々の混乱が、グラフからまで伝わってくるようである。
 佐藤所長が説明を続ける。

「いまこの施設の避難者で一番多いのが浪江町(山崎注:福島第一原発より20km圏内)で48名ですが、次が南相馬、そして、いわき市。で、623いたという3月18日のころの人数は、どちらかというと、いわき市ですね。180名くらいいましたから。いわき関係はどちらかというと北風が吹くと原発の風下にあるから(山崎注:お忘れかもしれないが、いわき市は、40歳以下にヨウ素剤を配布された場所です)危ないということで自主避難された方が多かったんです。でもその後の状況からするといわきは、けっこう放射線量が低いことが判明しまして」

 そうなのである、環境放射能の値はいわき市は意外と低いのである。

「どちらかというと、頭の上を飛び越して、茨城とか栃木とか、東京とかへ行っちゃってるというのがだんだん解ってくると、いわき方面は、戻られていく方々も多かったです」

 原発事故の怖さというのは、その後の風向きも多いに関係していることだ。距離だけでは測れない。遠くに逃げるというのは基本としてあるが、重要なのは、その時、風がどこに向いて吹いたか、である。SPEEDIという、今回の事故のために存在していたような緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステムを持ちながら、そのデータが国民を素通りしてIAEAにだけ報告されたというのは、福島県民だけでなく、茨城、栃木、群馬といった北関東一体の住民に対する国の裏切りとしか思えない。

 だれが、どこへ、逃げるべきだったのか?
 わたしが一番懸念するのは、乳幼児を含めた子供たちである。

 佐藤所長に尋ねた。

 いま現在、那須甲子には子供さんもけっこういらっしゃるんですか。

「今日現在、川上小中学校に16人が通っています。高校生は3名、旭高校に。転入学試験を受け、合格して、そこに通っています」

 川上小中学校は福島県西白河郡西郷村にある。
 旭高校は、福島県白河市内にある学校だ。
 両者とも福島県のなかでは南限に近い場所にある村と市である。
 ちなみに県が公表している西郷村(福島第一原発より西南西約84km)と白河市(福島第一原発より西南西約81km)の環境放射能の値をここに記そう。5月27日だと、西郷村役場が0.57μSv/hで、白河市が0.56μSv/hあたりを推移している。この値が果たして子供たちに適切かどうか? 確かに浪江町(福島第一原発より西北西約29km)のように、3μSv/h以上を連日記録するような数字ではないのだが。そもそも国の定めた暫定基準値が世界から正気でないと言われているのだ。これが本当に安心といえる値かというと、わたしは首を傾げたくなるのだが、ともあれ、気にかかることを質問していこう。

 いまのところ退去の見通しというのはたたない感じですよね?

「県の災害対策本部からは、七月末をめどに、仮設住宅等を準備する方向で考えているので、そ
れまでは避難所として運営するよう言われています。なので、当施設としては七月末までが、避難
所かなとは思ってますが。しかし、本来青少年教育施設ですから、その役割が十分果たせる状況をいち早く取り戻したいという思いもあります」
 
過去を思い出す。確かに最初にここを訪れたのは、夏場だった。冬のスキーというのもあったけれど(とはいえ、リフトはない。自力で山を登って、滑り降りてくるのである。わたしなどは2回目で疲弊した)、夏場のほうが圧倒的に楽しい。
 佐藤所長の説明が続く。

「ご覧の通り、いまは新緑のいい時期ですから、学校も使いたくて使いたくてという時期なんですよね。毎月、この時期ですと、月に1万5000名、使っている時期なんですよ」

 この数字には驚いた。どういう算出で「1万5000名」になるのだろうかと思ったら、こういう事態を迎えるまで、連日、400から500の学童が施設にやってきて、30日で1万5000ぐらいの人数が使っているという計算になるらしい。
 ここでふと、妙なことを思い出した。
 そういえば高校のときも来てますね、わたし。県立白河女子高校のとき(現在の旭高校である。避難してきた子供たちが転入学して通っている学校だ。男女共学になったときに、母校の名前が変わったのである)。

「そうかもしれないですね、高校生はクラスのオリエンテーションとか、生徒会の指導者研修とか」

 鮮やかに記憶が蘇える。

 そうです! それで利用させてもらいました。一応、生徒会だったんで、わたし。

「リーダー研修で使いますね、はい」

 そうでした、思い出しました、二段ベッドでしたよね、確か。

「そうです。二段ベッドが八つあって、16人部屋というのが、うちの基本なんです。あいだに十二畳の和室があって、そこも泊めると、500人ぐらい入るんですが。基本的にはベッドの数だけで計算すると400なんですよ」

 ここであっけにとられた。

 3月18日には623人の避難民を受け入れていたと、さっき、佐藤所長の口から聞いたばかりである。よく600人以上入ったものである。

「特別養護老人ホームは、入所者の方がベッドの部屋に入られてしまうと、(特別養護老人ホームの)職員の数が足りないので、できればプレイホールとかのフラットな部屋でお願いしたいということでしたので、そういう部屋に入ってもらいました。そこに布団とかマットレスとかを運んで」

 ここで恐怖する。那須は避暑地であるが、冬は寒いぞ!
 ということは、和室を割り当ててもらった避難民は布団なしで寝たの? 怯えて思わず「うわあ」と叫ぶ。
 すると佐藤所長はにっこり笑った。

「うちはキャンプ場もあるので、キャンプ場から寝袋運んできて畳の部屋で寝ていただいたんです」

 胸を撫で下ろす。なるほど、その手があったか。
 実はここに来る前に、佐藤所長は大変人望の厚い方だという噂をちょっと聞きかじっていたのだが、これは頼りになる方だよなと納得した。優しいだけじゃないぞ、タフでもある。
 さて質問を再開しよう。
 各部屋の部屋割りというのはどうされたんですか?

「その時点で埋めていきました。最初は状況を聞いていたんです。足腰が悪いとか、年齢的にトイレから遠くなるのは困る、といった状況を。ただ、人数が一気に増えたとき、丁寧にやっていると対応が追いつかないので、空いているところに次々に入ってもらうという形をとりました。その後、状況が落ち着いてから、高齢者や身障者の方々に配慮した部屋割りに変えました。そして現時点で124名ですから、各部屋一ファミリーの部屋割りになっていますね」

 ああ、よかったです。
 ここを避難所に選んだ人々が、ビッグパレットで段ボールによる「パーテーション」で過ごさなくてはいけない避難者よりも、はるかに良い状況に置かれているのを知り、本当にほっとする。おまけに環境放射能の値も、ビッグパレットよりもずっとましなのである。「運がいいとか悪いとか、人はときどき口にするけど」という昭和の歌謡曲のフレーズがあったが、まさにいま、福島県内で避難生活を強いられている人には当てはまるよなと思う。

 佐藤所長が続ける。

「段ボールで仕切ったりする避難所にくらべると、うちはかなりましかなと思いますし、4日目からうちの食堂のスタッフも頑張ってくれて、限られた物資のなかで、温かい味噌汁を作って出したり、冷たいお握りをわざわざ崩して炒飯にしたり、とにかく温かいものを出すのを目標にしてやってました。また、お風呂も6日目から、なんとか入れるように手配していきましたので」

 これはちょっと驚いた。
 大浴場があるので、当日からすぐにお風呂は利用できたと思っていたのだけれども、実際に使用可能になったのは6日目からなのか。
 このときするっと聞き流してしまったのだが、あとで佐藤所長に確認を取ったところ、「水道管が5カ所で破裂して断水」していたのだという。ここにも地震の爪あとはあったのだ。で、那須甲子自然の家はスチーム暖房を使っている。いまある水で暖房をしないと、全員が凍えてしまう。だからお風呂は断念して、まず暖房に残りの水をまわし、ようやく点検が終わってから、今度は3日目に「炊事」を始めた。いよいよ大丈夫そうだ、問題ないようだとなって6日目にお風呂、である。避難民を受け入れる側であった那須甲子少年自然の家も、かなりアクロバティックな綱渡りをしたのが伺えて、3.12(福島においては、3.11より3.12が重い意味を持つので、わたしはこちらの表現を選ぶ)以降の、福島に親兄弟を残すわたし自身の混乱と恐怖も同時に思い出した。
 ちなみに、ここからすぐ近くの奥甲子温泉には「大黒屋」(http://www.kashionsen.jp/)という温泉旅館があって(凄く、良い宿です。こういう事態を迎える前は、3カ月前でないと予約不可能であった)、そこが被災者に無料でお風呂を使用させてくれるという情報に、わたしは接したことがある。日付までは思い出せないのだが、福島県内は断水している場所が多かった。なにせマグニチュード9である。わたしの姉の自宅も、断水が続いていた。

「お姉ちゃん、大黒屋が被災者にお風呂を無料で開放してるよ」

と伝えると、凄く暗い声で、

「そこまで行くガソリンがないわ」

と言われてしまい、二の句が告げられなかった。住所からすると、大黒屋は、那須甲子少年自然の家と至近距離にあったのだが、佐藤所長によると、

「大黒屋さんと、ちゃっぽランド(地元のスーパー銭湯です)はお風呂を無料で提供していますよという情報だけは出しましたけど、往復で何キロもありますからね。何人か元気のいい人たちは出かけていきましたけど、なにぶん、燃料が」

と言葉を濁した。
 個人的な話になるが、わたしは「大黒屋」は思いいれの強い宿なのである。実は実家の経営するガラス屋がこの現場を任せてもらっていたので、新装オープンの直前にヘルメットをかぶって内部に立ち入っちゃった、さも工事関係者のようなフリをして。奥甲子の大自然をたっぷりと満喫できる露天風呂を目撃して、にんまりと笑い、「よし! 今度まとまった入金があったら3カ月先の予約を入れてやろう」と思ったものだ。実現しないうちに今回のような事態になり、「よし! ならば避難民に代わってお礼に一泊」と思っていたのだが、自分の手持ちの福島取材の予算が尽きた。ごめんなさい、大黒屋。
 しかし、6日目からここの大浴場が使えるようになったというのは、体育館などでの避難生活を強いられた人たちよりも、かなり楽であっただろう。最初に仮設住宅に「潜入取材もどき」をしたときは、老人が語っていた。「女でも臭う」と。
 佐藤所長と話す。
 大浴場もいいんですよね、ここ。

「ええ。身障者用の浴場もありますので、車椅子のまま入れるようになっていますし」

 いや、ここはいいなあと思ったんですよ、避難所として。ビッグパレットを見たときに、これはないだろうと思って。

 わたしがそう言うと、佐藤所長は、

「うーん、ビッグパレットだとお風呂も仮設のお風呂になっちゃうし、大変ですよ。そういう意味ではここは、凄くいいです、と言ってもらっています。各市町村が二次避難所として会津のホテルとか旅館を斡旋してくるんですが、そちらに行った方々で、戻ってきた方もいる」

と笑った。

 思わずわたしも釣られて笑った。だってご飯、美味しいですもんね。

「ええ、お風呂もいいしご飯も美味しいというのもあったんですが、もっと重要だと被災者の方々が訴えられていたのがコミュニケーションなんです。ホテルとか旅館に行くと、各部屋に割り振られて、入れられたらそのまんまなので、情報がない。那須甲子では玄関に情報が貼り付けてあるし、緊急時は放送も入りますから」

 鍼の治療まであるんですね。
「ええ、マッサージ治療もしてますしね」

 タイから医療の相談も来るようですね。

「そうなんです。今日もね、午後2時からタイ王国の医療団が来て。最初は岐阜県の医療チーム、それから北海道医療チームなどに入ってもらったり。この医療チームとはまた別に、世田谷にある災害ボランティアの団体から、看護師だったり、整体師だったり、理学療法士だったり、マッサージ師だったりという方が、三泊四日ずつ被るようにしながら、引継ぎを自分たちでやりながら、入ってくれてます」

 ここでわたしは、気になっていたことを尋ねた。
 精神的な不調を訴えられる方は多いですか?

「まあ最初はねえ、我慢してたんですよ、皆さん。ただ、だんだん長期化してくると、やはり、精神的なものが出てくる。そういうなかで矢吹病院(この近隣では有名な精神科のある病院である)のボランティアが入ってくれたのは功を奏したかなと。常に相談室を開設していて、いつでもどうぞという感じにやってくれたのがよかったです」

 特別養護老人ホームの人たちがケアできる場所に移されていったあと、卒業式もままならずに避難してきた子供たちのために、卒業を祝う集いを催し、那須甲子自然の家の手作り卒業証書を手渡したという話を聞いた。また、プレイホールも、子供たちのために開放されたと。
 プレイホールやワンパクルームが開放されたのは、子供たちにとっては大変良いことであった。屋内退避ができて(この連載を連続してお読みになっている方ならご存知かと思うが、屋内退避だけでも外部被曝はかなり避けられる)、なおかつ体が動かせる環境があるというのは、大きな意味がある。あとで聞いた話によれば、基本、外に出るのも自由なのだけれども、子供たちはもっぱらプレイルームやワンパクルームで遊んでいるらしい。
 では老人はどうするという話はあるかもしれないが、大変申し訳ないが、わたしは老人と子供のどちらを取るか選べと迫られたら、子供を選ぶ。つい先日、このような報道があった。以下、抜粋。

東日本大震災:お墓にひなんします 南相馬の93歳自殺

自殺した女性が残した遺書=神保圭作撮影 「私はお墓にひなんします ごめんなさい」。福島県南相馬市の緊急時避難準備区域に住む93歳の女性が6月下旬、こう書き残し、自宅で自ら命を絶った。

(中略)

 ◇女性が家族に宛てた遺書の全文
(原文のまま。人名は伏せています)

 このたび3月11日のじしんとつなみでたいへんなのに 原発事故でちかくの人達がひなんめいれいで 3月18日家のかぞくも群馬の方につれてゆかれました 私は相馬市の娘○○(名前)いるので3月17日にひなんさせられました たいちょうくずし入院させられてけんこうになり2ケ月位せわになり 5月3日家に帰った ひとりで一ケ月位いた 毎日テレビで原発のニュースみてるといつよくなるかわからないやうだ またひなんするやうになったら老人はあしでまといになるから 家の家ぞくは6月6日に帰ってきましたので私も安心しました 毎日原発のことばかりでいきたここちしません こうするよりしかたありません さようなら 私はお墓にひなんします ごめんなさい


 抜粋、以上。
 遺書を読んだときは、涙を禁じえなかった。

 だがわたしは、もし仮に同じ立場に立たされたとしたら、同じ道を選んだだろうと思うのだ。わたしはもう、人生で十分、楽しい部分を生きたと。だからいまここで泡が弾けるように消えてもいいと。国よ、わたし個人に関しては、姥捨て山上等であると。
 また、この避難所に足場を置けた人は幸いであるとわたしは個人的に思うのだが、これって施設が偶然にも整っていたというのも大きいけれど、次々とこれから起こりうる状況を察知して動いた那須甲子少年自然の家のスタッフの方々の功績は大きいなと感じる。
 最後に確認のために質問した。

 佐藤所長、この施設の空間線量(お役所が言うところの「環境放射能」である。しかしわたしはこちらの表現のほうが、「誤魔化し」がないようで好きだ)ってどうですか?

「今週の月曜日か火曜日で、0.3から0.4μSv/hの間です」

 だいたい、西郷村役場と同じでしたか?

「西郷村役場は今日の新聞によると0.58μSv/hだから、それよりも、ちょっと低めですね」

 高さはどれぐらいで測ってますか?

「地表1mのところと地表10cmのところで測りました」

 地表だとどうですか?

「0.4μSv/hです」

 かなりほっとする。(ちなみ那須甲子青少年自然の家の、例えば子供たちがよく利用する「つどいの広場」などだと、7月7日時点で地表50cmで0.22μSv/h、地表1mで0.2μSv/hと落ち着いてきていると、後日、佐藤所長に教えてもらった)。
 とはいえ、都内に行くとこれは衝撃的な値だろうが、福島県ではまだ「安心」な数字である。巧い例えが浮かんでこないのだが、わたしの母が大腸がんから肝臓に転移したとき「まだ大丈夫、肺までじゃない」と思ったのに近い。「まだぎりぎり踏ん張れるかもしれない」という状況だ。
 わたし個人としては、福島がこの先も子供たちの長く留まる場所になってはいけないと考えている。集団疎開を現実的に考える時期に来ていると。ここはあくまで「緊急避難先」であるべきだと。だから最も頭が痛いのが、どうして国が、福島県内に急ピッチで、しかもたった2年間しか住めないという条件付の仮設住宅の建設などを進めているのか、なのである。
 まあ、0.4μSv/hは「とりあえず」いいとしよう。次の問題に移ろう。

 食事の野菜とかはどうされてます?
「食材料の調達及び調理については、委託業者に入ってもらっているので、任せていますが、放射線量等も含めて安全安心なものを提供してもらっています。なにせ妊産婦さんも乳幼児もいるもんですから。高い線量のものを食べさせるわけにはいかないのですよね」

 基準値はどうなっていますか?
「ほうれん草だと500ベクレル以下とか。政府の一覧表以下でやってます。500ベクレル以下で、500ベクレル近い数字のものではないと思います。水自体も、西郷の下のところの堀川ダムで測ったときは15ベクレル。上の源泉近くに行くと、針が振れません。6ベクレル以下は針が振れないということだったので、6ベクレル以下」

 上の源泉近くの水を使っているんですね?
「そうです。一応放射線関係については、いまのところ基準値以下に入っているかと思います。安全値のなかに入っていると思います。特に妊産婦もいるので、村にお願いしたら、ちょうど村のほうでも、環境放射能を毎日巡回して何箇所か測定しているので、那須甲子も巡回地に入れてあげましょうということになりまして、今日から毎日、測ってくれることになってます」

 よし、水は守られているぞ。これだけでずいぶん違うだろう。だが、問題は、外部被曝と、他の食品から否応もなく受ける内部被曝だ。どうしても福島近辺にいるというだけで、外部からも内部からも被曝から免れられない。流通の関係で。

 例えば西郷村にあるジャスコに行く。売られている野菜などは「がんばろう! ふくしま」の文字がかえって寒々しい地場産の野菜か、北関東のものなのである。直撃、である。白河市のイトーヨーカドーも同じだ。わたしは福島にいるあいだ、母親に、
「これからは食生活を全部変える気持ちで生きろ」
と伝えた。高知産のナスやピーマン、しし唐などは手に入るし、沖縄のゴーヤやかぼちゃなども手に入ったので、こういう物ばかりを買わせていた。終いには「酒が飲みたければ、これからはチリワインを飲め」とまで言った。母親はワインが不得手なので、「JINROにする」としょんぼりしていたが。ま、自分の母親に関してはまあ、年も年なので、いいとしよう。
 なので、再び個人的に思うのだが、福島県がいま進めるべきなのは仮設住宅の設置ではなく、福島から可能な限り遠隔地にある子供たちの収容施設である。こういう、那須甲子少年自然の家のような。西に行けば、西の生鮮食品が流通しているのだから。あるいは北海道でもいいのだ。
 テレビで学童の集団疎開に関する討論番組を見たのだけれども、医師サイドのほうが怒っていて(ブルーレイに録画していなかったので、再度の確認が取れず記憶のみだが、国立がんセンターの医師だったように思う)、政府は早急に学童を疎開させろと迫る。すると民主党サイドが、
「疎開させた先でいじめが」
と答える。
 いじめと甲状腺がんのどっちが不幸かなんて、あなたが決められることか?
 なによりも大事なのは「命」だろう? 幸も不幸も、生きていてこそだ。
 確かに、三宅島の全島避難のときみたいに、子供を廃校予定の学校の寮に集団疎開させて、かならずしもうまくいったとはいえない例もある。以下、内閣府のHP(http://www.bousai.go.jp/mfs/index.htm)から抜粋。


【区分】 
第4期 被災地応急対応期(9/4全島避難~平成14年3/12一時帰宅) 
4-3.長期避難と避難生活 
4.避難生活の問題点

【教訓情報】 
05.児童が学校生活の中で癒しとなったのは、親や家族との電話だった。

【文献】 
◆九月当初、緑の公衆電話が男子棟女子棟に一台ずつ設置されていた。小中高とあわせて二〇〇名の児童生徒に一台だけであった。それまでは子どもたちが両親と連絡があっても、寂しくても、なにも連絡を取る手段はなかった。急な避難でもあり、携帯電話を持っている子はもちろん誰もいなかった。
 テレホンカードがまもなく支援者の方から届けられるようになった。電話が入ってから数ヶ月は電話の前が行列だった。特に、小学校の夜の学習時間が終わり、就寝準備をする八時四五分からがピークである。寝間着を着た子どもたちが一〇数人は並ぶ。電話している子どもは「お母さん、迎えに来て!。」とか「お母さんに会いたい。」と話している。私にもその必死の思いが伝わってくる。ほとんどの子は電話で話している時には決まって涙を流したり、目を赤くしている。お母さんの声を聞くだけで今まで我慢していた緊張が解けるのだろう。
 それを待っている子も、その声を聞いて早く電話がしたくてたまらないという様子で待っている。でも、「早くしろ」などと言う子はいない。電話している子どもの気持ちが自分の気持ちでもあることがわかるのだ。電話の番が回ってくると急いでカードを入れて、「お母さん。」とまず呼びかける。そして「お母さんに会いたい。」「帰りたい。」というふうになる。そこで、お母さんからいろいろと慰めの言葉がかけられる。しばらくする寮の中や学校の中であったことをおかあさんにいろいろと報告する。最後にはうんうんとうなずいて電話を切るという様子である。
 一週間後には各棟に二台の電話が増えて、計三台ずつになった。この頃も電話をする子どもたちはどんどん増えているという状況だった。いままで我慢していた子も電話が三台に増えて、テレホンカードも支援の方からたくさん寄せられていたので、使い切った子どもにはどんどん追加して配布していた。この頃も小学生のピークは同じ、午後八時四五分から九時二〇分程までである。その時間になると各電話機に数人が並び、あちこちから泣き声が聞こえて来るという状況であった。この傾向は、特に女子の方に多かった。泣き声をあげるのは女の子が多かった。[『三宅島 こどもたちとの365日』小笠原康夫(2002/2),p.86-88] 


 抜粋、以上。
 だが大丈夫だ。問題ない。いまや「テレホンカード」の時代ではないのである! そんなときこそ孫正義のSoftBankのスマートフォンがあるではないか!
 いや別に、ドコモでもいいんだけど。一応、100億円寄付してくれた男だし、きっと「お願い、孫正義!」と訴えていれば、疎開する子供たちにもスマートフォンぐらい配布してくれそうな気がする。「ホワイト家族24」なら、家族への国内通話・メールが、24時間、無料である。(という訳で、スマートフォンの宣伝もしたから、孫氏には疎開する子供たちにはスマートフォンを配布して欲しいな、と)。
 わたしなら携帯があろうがなかろうが、即座に、自分の子供を疎開させるね。そして「福島出身者だ」といじめられたと泣きついてきたら「目には目と歯と肋骨を。リアルで殴れ」と教えるね。
 それから念のため、佐藤所長に、子供たちから直接話を伺うことは可能かのかを尋ねた。
 しかしこれに関しては、メンタルヘルスの観点からいかがかと思うとのことで断られた。佐藤所長、鉄壁の防御壁。かえって安心したかも。わたしが、子供の心をかき混ぜる必要はなにもない。

 子供こそが、この失墜していく国の、唯一の、本当の宝である。

 これを守らずして、なにを守る?
 わたしは提言したい。四国、九州、沖縄などの遠隔地に、早急に那須甲子青少年自然の家のような施設を作り、子供たちを疎開させるべきだと。既存の施設を利用するのも多いにけっこうなことだと思う。

 ちなみに、佐藤所長に教わったところによると、四国には「国立大洲青少年交流の家」、「国立室戸青少年自然の家」、九州には「国立阿蘇青少年交流自然の家」、「国立夜須高原青少年自然の家」、「国立諫早青少年自然の家」、「国立大隈青少年自然の家」、沖縄には「国立沖縄青少年交流の家」の七施設があるそうだ。こういう施設を利用しない手はないんじゃないだろうか。
 なあに、「親」なんてもんは、いたっていなくたって子供なんて自然と育つものである。むしろ虐待するような親から離されてほっとする子だっているかもしれないじゃないか。いや、「いじめ」っていう意味不明の切り札を乱用する民主党議員への嫌味でもあるんだがね。要するになにもする気ないんだろう。

 声を大にして何度も訴えよう。この国の最後の福祉として、この提言を実現に移していただきたい。

 取材の最後の頃、わたしと入れ替わりでタイからの医師団が佐藤所長に挨拶に訪れた。それでわたしは那須甲子少年自然の家を後にしたのだが、これがわたしがこの目で見た「福島」のなかで、最も心休まった場所となった。無論、これは施設を管理している佐藤所長が語ってくれた内容なので、「那須甲子にいれば安心して避難していられる」という、わたしの望む実態とは恐らく完全には重ならないと思う。そして残念なことは「那須甲子少年自然の家までもが汚染されたのだ」という事実は、ごろんと、転がっているのだ。否応も無く。
 佐藤所長の言葉によれば、これから那須甲子青少年自然の家は、仮設住宅が県内の用地に設置されて避難者の退去が済み次第、通常の業務に戻るとのことだった。だが県内の他地域と比較しての空間線量のことを思うと、まだしばらく、ここを拠点に本当の生活の場を探せる人たちを匿ってあげて欲しいと心から願っての帰路となった。無論これは国や県が決めることであり、佐藤所長には権限がないのは重々承知した上でのことなのだが。

 美しかった。昭和天皇が愛された那須の新緑は、目にしみるほど美しかった。悲しくなるほど、美しかった。

時事音痴/福島記7

 5月26日の「福島」を記す試みです。

 正直、わたしは疲れてきていた。福島にいて、物を見聞きすること自体に。とはいえ、わたしは期間限定で福島から「脱出」できる身である。「どうにも術がないから、ここに住み続けるしかない」という事実を諦念とともに受け入れている人たちだって沢山、この地には残されているのだ。
 この日わたしは、「ビッグパレットふくしま(http://www.big-palette.jp/)」に足を運んだ。

 ここは東京で言えばビッグサイトのような場所で、県内の一大コンベンションセンターである。ここがまるごとひとつ、避難所になっているという。

 主に福島第一原発から20km圏内の住民が避難しているとの情報だった。
 正式な取材の申し込みをしている訳でもないし、行ってなにか収穫があるかどうか、よく解らない。こういうときに、出版社名義の名刺とか新聞記者の身分証のようなものをもたない身は辛い。でも、行ってみるしかない。
 地震で地割れを起こした場所に応急処置が施された国道4号線を北上し、 ナビで郡山市を目指す。
 このあたりは実は環境放射能が高い。正直、近づくだけでストレスになる。
 西郷村にある実家から小一時間ほど走ると、目的地付近に到着した。
 デザインとしては、ビッグサイトによく似ていて、コンクリート打ちっぱなしの、バブルの後に流行ったデザイン。1995年ごろ、

「ばかけんちく探偵団(http://www.st.rim.or.jp/~flui/bk/baka_home.html)」

というサイトが一躍脚光を浴びたことがあって、江戸東京博物館を、「江戸東京“巨大ロボ”博物館」とかくさして、けっこう笑ったもんだけど、湾岸あたりでバブル期に浮かれてデザインされた「ばか建築」は全部あのサイトであげつらわれたもんですよ。たぶん、郡山のビッグパレットも、あそこのサイトの主だったら、なにか一家言あったに違いない。デザインが浮かれすぎていて。
 さてそのビッグパレット。駐車場に入ろうとしたが、 どこも閉鎖されている。一カ所だけ、「関係者以外、立ち入り禁止」という監視のついた入り口だけが開放さているのが判明した。
 どうやら、どさくさにまぎれて入るというのは禁じ手らしい。何回か周回していたら胡乱な目で見られていたので、諦めて、正攻法で。
 車のブレーキを踏みながら入り口で見張っている警備員に、

「恐れ入ります。取材で参りました」

と告げた。するとあっさり、

「それではお通りください」

と、駐車場に通してもらえた。
 なんだ、簡単だった。
 仮設住宅のときに、さんざん用心されたせいで、逆にこちらが及び腰になっていたのを知る。 駐車場は満車状態。喫煙所が建物の外側のあちこちに設けられ、そこで所在なくタバコを吹かす喫煙者たち。
 たまたま喫煙所のそばに空いているスペースを発見した。駐車しようとすると、初心者マークを見たのと、運転が下手なのを見抜かれたせいだと思うんだけど、喫煙所にいる人たちが誘導してくれた、笑いながら。
 今回のことで「変なところで得をしている」と思ったのは、去年の七月に妙な成り行きで免許を取得しておいたのと、35歳の頃になっていきなり喫煙者になったことだ。免許のおかげで、県内のあちこちをそれなりに自力で取材してまわれるし、タバコはコミュニケーションアイテムになる。わたしは、県とかが「見せたい部分」の福島だけを見たいんじゃないんだよな。「本当」の福島を見たいんだよ。
 車を降りるなり、苦笑しながらお礼する。

「ありがとございます!」

「いやいや」

 誘導してくれた人と一緒にタバコに火をつける。
 するとたまたま、そのなかに「川内村」の行政のネームプレートをつけた男性が混じっていた。思わず反射的に尋ねる。

「川内村の行政の方でしょうか?」

「そうです」

「あの、川内村は、福島第一原発からどれぐらいの距離が?」

「ほとんどが20km圏内に入りますね」

「では、現在は行政が全部、このビッグパレットに移転している状態ですか?」

「そうです」

「避難されてきたのはいつだったのでしょう」

「3月15日ですね」

「それは……三号機の爆発のあとですよね?」

 記憶が正しければ、爆発は12日。遅い!

「そうですね」

 あの日、だれがどれだけ放射線を浴びたかなんて、把握している人がいるんだろうか。 どうしてECCS、非常用炉心冷却装置が作動しなくなった時点で、非常事態宣言を出して、住民を避難させなかったのだ? 遅い、なにもかもが後手、後手だ。

「そうですか……。あの、今後はどうなさるんでしょう。行政の機能ごと、川内村の移転という話になっているのでしょうか?」

 これはほとんど確認のために尋ねたような気分だった。
 すると、男性の答えは違った。

「いいえ、帰ります! 安全性が確認され次第、川内村に帰ります」 

 正気か? 20km圏内だぞ? そこにはプルトニウムも飛散しているだろうと、海外の専門家たちも指摘している場所だぞ?
 気分が悪くなる。
 飯舘村の行政といい、どうして「土地にしがみつく」という発想以外、浮かんでこないのだろう。日本には過疎で悩む村や町があるではないか。現にわたしが現在、仮住まいをしているのは、限界集落である。休耕田だって沢山あるのだ。確かに素人がいきなり農業を始めようとしたら、非常にコストがかかる。わたしは夫が農業をはじめたときに思った。「なんてコストのかかるジョブチェンジなんだ!」と。しかしむしろこれから国に求めていくべきなのは、ここではない場所への「移住の手段と費用」なのではないのか?
 男性が立ち去ったので、とりあえずビッグパレットに入る。
 一歩入って、足がすくんだ。
 近代的な建物のなかに、段ボールを「パーテーション」にしただけの区間が広がっている。 布団を敷くだけのスペースしかない。大人の背丈ならば、内部が丸見えの状態だ。これではプライバシーもあったものではない。

 もう、二カ月以上も経つのに、この有様だ。 
 見るのが申し訳なくて、目線を伏せて歩いた。 
 スペースを訪問して体調などを尋ねてまわっている医療関係者たちがちらりと視界に入った。
 すると大画面のテレビの前で、呆然と、眺めるでもなく、居座る人たちがいた。 
 でも、なにも直視できない。 
 たまに視界に入ってくる人は、表情が疲れきっている。 


 やがて壁に突き当たり、避難所の人たちに対する呼びかけの紙が貼られているのが目に入った。
 女性専用スペースというのが設けられているらしい。

「女性だけでおしゃべりがしたいとき」
「赤ちゃんの夜泣きが酷いとき」
「ほっとくつろぎたいとき」

などと書かれている。
 ここに行ってみよう、と思った。
 少なくとも、こういう場所ならば、まだ、コミュニケーションを求めるだけの気力がある人がいるはずだ。
 広大なコンベンションセンターなので、現在地からして把握できなかった。そばを歩いている中年女性に声をかけた。

「すいません、女性専用スペースってどちらでしょう?」

「ああ、こっちこっち」

 親切に、その場所まで歩いて連れて行ってくれた。

「ありがとうございます」

 お辞儀をするとにっこり笑った。よかった、まだ笑えるのだ。
 女性専用スペースのドアをあけた。小さな会議室に40代から50代ぐらいの女性たちが集っている。 少しだけ明るく振舞おうと努める。

「失礼します。この席いいですかあ?」

 するとみんなから、

「どうぞ、どうぞ」

と席を勧められた。
 全員、なにか手芸品みたいのを作っている。

「なにを作っていらっしゃるんですか?」

 隣に座っている、穏やかそうな少しわたしより年上の女性に声をかけた。

「匂い袋なの。やってみる?」

「いや。不器用ですから」

 これは本当である。中学のときに夏休みの宿題で「パジャマを縫え」というのがあったのだけど、やり方がわからず母親に教えを請うたら、

「お前がそんなことを学んでも、中国人の人件費にかないません!」

と一喝された。母はドライで経済優先の女なのだ。心の潤いとかなにもなし。しかし、

「それもそうか……。これで食っていくのは確かに難しいわ」

と納得してしまったため、結局、わたしひとりだけ、パジャマを完成させられずに提出した過去がある。 しかしこの話を夫に漏らしたら、

「なんだかその話って言い難いけど、なんだか品がないね。君ってお母さんからそういう部分を沢山貰ってるよ?」

と言われた。すいませんねえ!
 穏やかそうな女性に尋ねる。

「匂い袋を作ってどうするんですか?」

「息子のね、車が臭いのよ。喫煙者だから。だからせめてと思って」

 嫌だ。耳が痛い。わたしの車は臭いと思う、非喫煙者からしたら。

「どうしてあんなもの吸うのかしら。車もね、あちこちに穴があいたりして」

 すいません、わたしもそうです。熱い灰がこぼれちゃうと、どうしてもね。灰が落ちてもハンドルもキープしないといけませんし。
 テーブルの上には、女性用下着メーカーの「トリンプ」が、サイズなどを指定すると物資として送ってくれるので、ブラのサイズを書いて申し込むようにとの紙が置いてあった。
 これって切実な問題だろうなと思った。
 ちらっと視界に入ってきた人たちは、ほとんどが「ジャージ」なのである。着の身着のまま逃げてきたのは察することができる。いちばん困るのは、下着の代えだろう。
 胸に赤いリボンをつけている人たちが多かった。

「どちらから避難されていらしたんですか?」

 穏やかそうな奥さんに尋ねる。すると胸のリボンを示された。 

「ほら、富岡」 

 20km圏内だ。 

「そのリボンが目印なんですか?」 

「そおよ。あなたはどちらから?」 

 ここで迷った。すごく正直なことを言うと、わたしは小山に一軒家と土地を残したまま、わずかな荷物を梱包して、西に逃げた。ここで今、仮住まいしている場所を正確に伝えると、構えられる可能性は大きい。少しの真実と、ひとつの嘘を混ぜる。

「西郷村から参りました。解りますか? 東北新幹線の新白河駅のある場所から5分ぐらいのところです」

「あらあ、西郷村なんだ。西郷からここに避難?」

「いえ、避難というわけじゃなくて。でも西郷あたりの地震の被害も凄いんです。よければデジカメのデータ、見ますか?」

「うん。見たい」

 いままで会って会話した女性のなかで、この女性がいちばん構えないのに 気づいた。記憶のためにデジカメに残してきた、地盤ごと滑り落ちた住宅などを見せた。

「酷いわねえ。うちは地震も津波の被害もなかったのよ」

 なのに、あなたは帰れない。たぶん、生きているあいだは絶対に無理だ。きっと納得がいかない。天災で家が壊れるのは誰だって納得がいく。だけど原発事故は人災だ。
 友人から聞いた。この国で初めて原発が稼動しだしたときのニュース。 「遂に夢のエネルギーが」とアナウンサーが報道する。夢なんかじゃない。悪夢のエネルギーだ。
 そもそもどうして日本がアメリカからGM製の原発を買わされたかといえば、本当に逆説的で悲しいことではあるが、「日本が唯一の被曝国」だったからだ。
 アメリカとソ連という二大国は核兵器の開発を競い合っていた。しかし日本は、その後の第五福竜丸事件(1954年、アメリカによりビキニ環礁で行われた水爆実験に、遠洋マグロ漁業を行っていた第五福竜丸が遭遇した事件である。念のため。話は少しずれるが、たまたまわたしは夢の島公園を訪れたとき、遺族の追悼式に出くわしたことがある)もあって、核の力というものにアレルギーがあった。
 だからこそ「原子力は夢のエネルギー」と、アメリカは一大キャンペーンを行い、同盟国で核の力を共有しようとした。それと同時に、核兵器に転用されるのを抑止しながら、IAEAで核の力を共有しようと提案したのだ。日本テレビの生みの親である柴田秀利、この男は1955年ころ 原子力委員会の初代委員長となる正力松太郎と共に、反核感情が高まるもとで原子力発電を導入するために

「毒をもって毒を制する」大キャンペーンを展開。

この国に原発を持ち込んだ。原子力へのアレルギーは、原子力を持って制する、ということだ。いま生きていたら中性子を浴びせてやりたいほど、わたしはこの男に怒りを抱いているのだが、この男、1986年にアメリカへ旅行中、フロリダで客死しているそうだ。原発で美味しい思いをした連中は、みんなすでに墓の中だ。
 そして事実だけがごろんと転がっている。
 福島の、核で汚染された大地、という事実だけが、ごろんと。
 
 辛くて、話をそらした。
 せっせと毛糸でガーター編みをしているグループもいる。丸い、石鹸みたいな形のものを作っている。奥さんに尋ねた。

「これ、なにするものなんですか?」

「タワシの代わりに使うの。洗剤もほとんどいらないのよ」

 そこで奥さんは手を休め、

「あー、わたし、それよりレース編みがしたい!」

と言った。

「えっ、レース編み?」

「そう。好きなの、レース編み。すごく落ち着くし、楽しいの」

「難しいでしょう、大変でしょう」

「そんなことないのよ。わたしはパイナップル編みが好きなんだけど、本当に楽しいわ。糸がちょっと高いんだけど、糸を買いにいってね、よく作ったりしてたの」

 そこには富岡町で、普通に、つましく暮らしていた人の姿があった。

「凄い! わたしなんかには絶対できない」

 いや、お世辞じゃなくて、真面目に。
 ああいうの編んだりしてるの見ると、「神業!」としか思えない。わたしはキーボードを叩く以外は無能の人である。
 ちょうどそこに、司法書士の先生から電話が入った。そっと席を立ち、隅で会話。

「もしもし、お世話になります。山崎です。あ、はい。それで結構です。進めてください」
 すると奥さんが温和な表情でわたしに尋ねた。

「なにかお仕事してらっしゃるの?」

 構えられるのを覚悟の上で、でも嘘もつけなくて名乗る。

「わたし、フリーライターの山崎と申します」

 すると奥さんが身を乗り出した。

「あら、文章を書いているの? すごいわあ。雑誌とかに載るの?」

「そういうときもありますし、いま、出版社がインターネット上で情報を発信してまして。そういうところに連載を持ってます」

「お子さんは?」

 ここでひとつ得なこと。わたしは、不妊だ!

「欲しかったんですけど、不妊治療を受けたけど駄目でして」

 同情の視線。いや、それほど哀れまれるほどじゃあない。大して気にしちゃいない。

「おかげで気楽な身です」

 これは本音だ。わたし、不妊治療の薬の副作用に耐えられなくて逃げ出したし。根性あるなら続けてたし。
 勇気付けるように、奥さんが言う。

「でも凄いわ。文才があるのね」

「あんなの、慣れです。文豪ともなれば違うんでしょうけど、わたしはバイト先で原稿書かされて、それからですから。慣れたら誰でもできる程度の文章しか書いてないし、書けません。それよりもレース編みのほうが凄いですよ」

「それもね、慣れよ」

 いや絶対に適正があると思うけど。まあいいや。
 奥さんが尋ねる。

「文章を書くだけじゃなくて、お料理とかも得意なの?」

「や! もう、全然駄目で」

「あら嬉しい。なにもかも出来る人っているじゃない? 英語も話せます、フランス語も得意です、仕事もばりばりやってます、すると近寄りがたい感じがしちゃうけど。料理が出来ませんって言われるとほっとしちゃう」

「いやー、いいことじゃないんでしょうけど。特に山菜の処理とかまったく解らなくて」

 仮住まいの限界集落に移住してから、貰った山菜をどう処理するか悩んでいたわたしには、切実な問題だった。

「あれはねえ、年配の方に尋ねるのが一番なの」
 そこからしばらく、奥さんは熱心に、山菜の処理方法について教えてくれた。

「葉わさびはね、砂糖を少しまぶして、熱湯をかけるの。すると辛み成分が出るんですって。栄養士の人なんかは、みんな知ってることらしいわ」

「あっ、そうなんですか!」

「ご近所の人が山菜を持ってらっしゃるでしょう? そういうときにきちんとお料理して返すと、また来年も持ってきてくれるようになるわよ」
 そこで奥さんは小さくため息をついて、言った。

「自分でも山菜を取ったわ。フキとか、ワラビとか……。そういうこともできないのは、正直、ストレスね」

 わたしは東京から栃木県小山市に移住するにあたり、相当な覚悟の上だった。覚悟の上とはいえ、ストレスはあった。小山市長の大久保氏によくしてもらったりとか、いい出会いもあったけれども、長く住んだ東京のライフスタイルから地方都市の生活に馴染むにはそれなりの苦痛が伴った。その後、今の仮住まいに移住したときは、

「もうどうにでもなあれ!」

と、いっそ開き直れたけれど。
 奥さんは、突然、自分たちの都合でもなんでもなく、行政のバスに乗せられ、このビッグパレットでの避難生活を余儀なくされたのだ。

 帰れない故郷。 
 もう、元には戻れない。 

 そしてこういう言い方は非常に酷ではあるが、わたしは内心思っている。
 20km圏内の人々は、いきなり「ホームレス」に叩き落されたのだ、と(しかし避難指示を拡大させて欲しいのも本音だ)。それをどこまで行政は援助して生活の再建をさせるのだろう。責任は取っていただきたい。
 わたしは思わず、言葉を逃がした。

「今年は、ちょっと無理ですね」

 奥さんは賢い人だったらしい。こう、言葉を続けた。

「これからどうするのか、家族で話し合うわ。 するとね、必ず、揉める。毎日のように、喧嘩よ」

 戻れないことを、よくよく承知しているらしい。 そして、行政が「がんばろう、ふくしま」などと綺麗ごとを言って、ほとんど生活再建の援助をする気がないことも。そしてこの国にそんな力もなければ、指導力のある政治家もいないことも。

 匂い袋を作ったり、毛糸でタワシを作ったりするボランティア活動をしているのは、郡山の婦人会だった。
 それを仕切っている女性がわめく。

「それにしても頭に来たわ。今週の週刊誌にね、避難所による食事の違いなんかを載せてさ!」
 奥さんがわたしに説明する。

「最初はね、パンと飲み物だけだった。しばらく経ってから、コンビニの500円ぐらいのお弁当に。でも3日前から突然、ご飯もおかずの盛りも良くなったの。だれかが言ってたわ。 『これ、建前の弁当?』って。建前ってわかる?」

「ええ、実家が建築関係なもので」

 建前とは、棟上が終わったところで建築関係者やご近所に振舞われる、豪華なお弁当である。昔はこれがご馳走だった。

「シャケが切り身で入っていたし。ご飯の量も半端じゃなくて。男の人ならいいだろうけど、わたし、太っちゃうわ」

 しかしその避難所の食事の内容の違いをいちいち報道することになんの意味があるのだろう。どの週刊誌かは知らないが、取引のある出版社だったら、わたしは恥じるぞ。全国に配布される出版物だ。当然、読者のなかにはミスリードをする人だって出てくる。「避難所でこれだけのご飯を“恵んで”貰って、なんの仕事もしないでぶらぶらしてるだけで」。日本人のそのあたりの「他人が得をしているのではないか」とひがむ性根、性根の腐り方いうのは、最近になってしみじみ知ってきたのだが、半端ではない。わたしが今回の原発事故で一番嫌で、なおかつ印象に残ったのは、名古屋出身の編集者の言葉だった。

「このままフクシマ県民は全員“生活保護”のタカリになるんですか? 嫌っスねえ、この事故のおかげで一生食えるとか思ってたら」

 なんという卑しい物の見方だろうと驚愕したのだが、これが「西」の感覚なんだなと最近になってしみじみ知った。「東京に原発を!」という広瀬隆の著書のタイトルを思い出した。これが福島でなくて東京だったら? 例えば都庁のそばに原発があったら? 君の出版社の借りているビルは「グラウンド・ゼロ」だ。借りているマンションは「自主避難勧告」地点だ。さあ? どうやって生活していく? 西に逃げても君が生活を維持していくだけの稼ぎを出せる「出版社」はあるかな? それ以前に、出版業界自体が崩壊だ。
 しかしわたしのそんな思いとは裏腹に、会議室のなかは和やかな空気が流れていた。
 誰かがわたしの隣に座っている温厚な奥さんに声をかける。

「奥さんは少し太ったほうがいいわよ」

 確かに細身の女性だった。
 わたしは原発事故のあとの1カ月で5kg体重を落とした。テレビのニュースを食い入るように見てしまうのだが、そうするとご飯が喉を通らなくなるのだ。お腹は減っているのに、食べられない。この奥さんも、心労でやせたのではないのだろうか。そうでなければいいのだが。
 婦人会を仕切る女性が間に入る。

「でもやあね。年を取ってから痩せると、腹まわりは太ったままなのに、胸から痩せちゃって」
 わたしも談笑に混じった。

「そーなんですよ! わたしも痩せたらブラのサイズばっかり小さくなりやがって」

 ビッグパレットだって、環境放射能の値は決して低くない。
 それでもみんな、危ういところで「正気」を保とうとしている。そういう印象を受けた。 目に見えない恐怖に晒されながら。
 ここで、避難所においてあるカップで、

「ここにあるインスタントコーヒー、飲んでいいですかあ?」

と尋ねた。水道水は危険だろうとは思う、正直なところ。だが、みんなここのお茶を飲んでいる。持参したペットボトルの水を出したら、枝野官房長官並みに地元に生きる人たちに対して失礼である。どこからか、

「どうぞー」

という声がかかったので、その辺にあったカップを適当に選んで、インスタントコーヒーを淹れた。
 すると奥さんが目を輝かせた。

「あら、これ、××(ここ、記憶失念)ね!」

「有名なカップなんですか?」

「そうなの。息子が母の日に贈ってくれてね。 一時帰宅が許されたときに、持ち出してきたの」

「綺麗なカップですよね」

 わたしは直感的に思った。このカップは、郡山市の婦人会が、結婚式の引き出物などで貰ったけれども「いらなかった」カップを提供したものだと。
 郡山市は、県内でいちばん、豊かな街だ。幼稚園から中学まで女子だけで一貫教育をするミッション系の私立学校もある。
 奥さんがカップをしみじみと眺めながら、微笑む。

「わたしね、とても大事に使っているの、これ」

 悲しかった。東電につけこまれた浜通りの貧しさが、悲しかった。
 奥さんとしばしの談笑の後、トイレに行きたくなったのと、タバコが吸いたくなったのとで、カップを洗って席を外した。
 わたしは福島に来てからというもの、以前より格段にヘビースモーカーになっていた。 一息ごとにニコチンを摂取してないと、なんだか落ち着かないぐらいに。 正直、ここに居るだけでストレス、というか。絶望的な気分になり、つい、バカスカふかす。
 喫煙所から視界に入ってくるビッグパレットの周辺には、住居2年限定の仮設住宅が急ピッチで建築中だ。すごく、気になる。というのも、仮設住宅が、地を這うような高さで建築されているからだ。特に表土を取り除いての作業のようには見受けられなかった。そのまま汚染した大地の上を這うように、建設される仮設住宅。
 どうして県内にこだわるのだろう。どうしてこんな場所に人を住まわせるのだろう。 だけどそれでも「自主努力で」生活を再建しなければいけない人たちは、行政の指示に従うしかない。よほどの富裕層でないと、いきなり「ホームレス」に叩き落されて、生活の基盤を元に戻すことはできない。
 すると喫煙所での会話が耳に入ってきた。

「殺しに行く前から解るよね」

「解る、解る」

「臭いが半端ないから」

「牛はさ、体重が400kgあるから。蛆が凄いよな」

「安楽死させに行く前に死んでると、へこむよな」

「俺、ここは死んでるな、っていうの、牛舎に入る前から解るようになった」

 ちょうどこれを遡ること5月12日に、20km圏内の牛を安楽死させると決定した直後だった。牛は田んぼの草などを食べて生き延びていたのもいたが、牛舎につながれたままだったものは、衰弱死したのだろうなと推察した。
 ちらりとその方角に目をやった。富岡町の行政の人たちだった。
 話を聞いているのがつらくて、喫煙所でゴルフウェアを身に着けたおじいさんに話しかける。

「どちらから避難していらっしゃったんですか?」 

「富岡よ」 

「あれ? リボンをつけていない」 

「ああ。あれはよ、配給があるだろう? あのときに、余所者がさ、勝手に食っちゃうからな。それでリボンを渡されただけで。配給をもらうとき以外は、俺はつけない」 

 絶句する。

「配給を、勝手に?」

「そりゃあそうよ。だれだってタダで飯を食いたいもん」

 珍しく明るい老人だった。

「アンタはどこから来たの」

 ここでまた少し曖昧に答える。

「わたしですか? 西郷村です」

「ああ、西郷村っていったら、有名だべな」

「そうですか?」

「そりゃあそうよ」

 まあ、福島第一原発から84kmも距離があるのにストロンチウムが検出されちゃったからな。でも、全国区的に見たら富岡町ほどじゃないと個人的には思うんだが。 あとはタケノコの出荷規制か? なんかねえ、どう考えても西郷村を狙い撃ちにするのは、栃木県「那須町」の隣村だからだと思うんだよ。那須には御用邸もあるしなあ。しかしおかしいのは栃木県公式ホームページの「環境放射能の調査結果」だよ。いきなり言い切っちゃってるもんね。「これらの数値が、健康に影響することはありません。」へえっ、浴びて安全な放射線ってあったんだ。わたしは医師だった舅から聞いたけどね。「レントゲンもCTスキャンも出来ればやらないほうがいい。やるメリットがやらないメリットを上回るからやるだけだ」と。舅は間違ってたんだ、へえっ。そしてどうして県境を越えたとたんに空間線量がそれなりに高くても「健康に影響することはありません。」になるんだろうね? おい、どうなんだよ、栃木県。

 ま、それはいい。老人との会話に戻ろう。
 老人が背中のストレッチをしながら言う。

「あー、俺なんか本当は、逃げなくたってよかったんだよ」

「おいくつですか?」

「76歳」

「わたしの母の3歳年上ですね。まだお若い」

「若くなんかねえって。あと10年もすれば棺おけよ。放射能なんてどうせ10年ぐらい経たないと影響でないだろ? でもまあ、規則は守らなくちゃならねえからな。しょうがねえからここに来たのよ。あーあ、西郷あたりに国も土地をくれねえかなあ? 俺、土建屋なのよ。また商売やりたいわ」

 このパワーなら、まだいける。

「ですよねえ、元請になって、わたしの実家に仕事をください。うち、下請けです。ガラス屋です」

 西郷村のほうが、まだしも、環境放射能の値が低い。ずいぶんとマシであるちまちまとビッグパレットの横に仮設住宅なんて建ててないで、大規模に移住させてしまえよ。
 明るい老人なので、尋ねにくかったことなども尋ねてみようと決めた。

「避難者用のお風呂っていかがですか?」

「俺、使ったことない。車を持ち出してきたからさ、この近所のスーパー銭湯に行ってる」

「高くないですか?」

「被災者だっていうと、350円だったかな? そんなもんにしてもらえる。手帳があるのよ」

「それなら、東京の銭湯とさほど差がないですね」

 オープンな老人なので、聞きにくいこともどんどん突っ込んでいく。

「それと気になっていたんですが、お洗濯とかどうされてるんです?」

「全部、クリーニング

「えっ? あの、その……下着とかもですか」

 すると胸を張って答えられた。

「うん! クリーニングだ」

 また同じような質問をしてしまう。

「高くないですか?」

 いや、だってさあ、無収入なのに生活費だけが出て行くって心配じゃないの。

「いや別に。この近所でさ、小一時間ぐらい待てば、くるくるくるって、乾燥までしてくれるのがあっから」

 ここで気づいた。どうも年齢的に「カタカナ」に弱いんだと。

「……それ、『コインランドリー』じゃないでしょうか」

「あっ! そーだった! それだー」

 老人は爆笑した。
 この笑いに、少しだけほっとした。
 しかし見聞きしたもののダメージが大きいのと、老人のチェーンスモークに(他にすることがないらしい)さすがのわたしも撃退されて、今日はここまでと諦めた。
 喫煙所の前の車に乗り込もうとすると、老人が声をかけた。

「なんだ? 初心者なのか?」

「ええ、そうなんです。去年の七月に取ったばかりで」

「気をつけろよー。ゆっくり走れば、大丈夫だ」

 しかし、しみじみ理解してきたのだけれども、みんな精神的に参っている。特に、現役世代ほど。 負担をかけない取材を心がけないとならない。
 帰りがけに小腹が空いてきたので、つけ麺屋に立ち寄った。つけ麺かあ。タレも麺を茹でるお湯も水道水だよな、当然。まあいい。内部被曝上等。このつけ麺屋、どういう理由でかは知らないが、今月いっぱいで店を閉めるという張り紙がしてあった。漠然となんだけど、県内の景気が後退している雰囲気がするのは気のせいだろうか。
 店内ではテレビがついていて、ニュースが流れていた。
 テロップには、県内各地の「今日の環境放射能」が、「今日のお天気」みたいに、流れ続けている。「はいはい、福島市は1.5μSv/hねー、本日も高止まり、と」などと半ば無視してつけ麺を啜っていたのだが、やがて30km圏内の値が流れた。どの地点だったかはわずかな間だったので見逃したが、数値は脳裏に刻まれた。
 9μSv/h。
 うお! 完璧に「死のゾーン」。どうして40km圏内が「避難指示範囲」にならないか解らない。っていうか、わたし、20km圏内ギリギリまで接近して……。
 のんびりつけ麺を食べている気が失せた。
 そそくさと店を出て、より環境放射能の値が低い方角に向かって車を飛ばしている自分がいた。以前、チェルノブイリをバイクで走った女性のサイトを読んだときのことを思い出していた。
「ガイガーカウンターの音に追い立てられてギアを上げてしまう」
 わたしの手元にはガイガーカウンターすらない。だが、それでも入ってくる情報から、自分が低線量の被曝に晒されているのは認めざるを得ない。
 見えない恐怖に煽られながら、国道4号線を走った。
 そしてその恐怖から逃れられない運命に落とし込まれ、生活の基盤も全て奪われた人たちの行く末を案じた。

時事音痴番外編/福島記6

 では5月23日の「福島」を記す試みを始めます。
 前夜、わたしは夫から叱られていた。

「君はいったい、福島でなにをしているの? ボランティアのひとつもしないなんて」

と。
 周囲からはわたしは優しい夫に恵まれたと思われているが、実はそうでもない。今回の福島行きにしてもそうなのである。まず、夫の意向を確認しようとして、

「福島に3週間ほど行ってこようと思うんだけど、どうかなあ?」

と尋ねたら、真っ向から目を見据えられて言われたのだ。

「僕が君と同じ仕事をしていたら、すぐにもそうしている。僕は不思議に思っていた。どうして君がそれを早く言い出さないのかなと」

 わたしが福島行きを夫に打診したのは、4号機が傾いているという噂がネット上で流れていた時期だった。事実かどうかは知らない。そして、行ったからといってわたしに何ができるかといえば、「見たものを自分の視点なりに書く」という、いったいそれにどういう意味があるかよく解らない仕事である。
 すでに現地には、ばりばりのノンフィクションライターの人たちが大勢、詰め掛けている。いったいわたしのような訳の解らない人間が行ったところで、それ以上の仕事ができるかしれたもんじゃないと個人的には思う。
 しかしそういう思いを口にすると、夫に叩きのめされた。

「要するに、君が福島に行きたくないんでしょう? だったら最初から行こうと思うとか言い出さなきゃいいのに」

 あー、解ったよ、行くよ、行けばいいんだね?
 行って見て来るよ。そして書くよ!
 で、5月23日の前夜、わたしは夫に自分が見たものを報告したのだ。

「今日さあ、福一のある浜通りのいわき市ってところのセブンイレブンに、ボランティアの子だちが来てたよ。汚染された瓦礫とか右に動かしたり左に動かしたりして、なにかいいことあるのかなあ?
そもそもどうするんだろう、あの瓦礫」

 するとまた鋭く痛いところを突かれた。

「君はどうしてボランティアをやらないの?」

「えっ、だってわたしは……その」

「要するに、行きたくないんだね。ボランティア」
 あー、解ったよ、行くよ、行けばいいんだろう!

 このように。
 わたしには大変、この人は厳しい。
 その代わりといってはなんだが、一般的な妻としての役割みたいのは、かなり基準が緩いようだ。仕事でご飯が作れなくても自分で勝手になんとかするし、部屋が汚れていても気にならないらしいし、洗濯物が畳んでなくてもそれが当たり前、みたいな。野郎の二人暮らしに限りなく、近いものがある。
 といった次第で、わたしは県のオフィシャル・サイトで(現在、どうなっているか知らないが、この時期の県のオフィシャル・サイトのトップページって悲惨だった。この原稿が掲載になる頃にはどうなってるか知らないが、どこの村の自治体だってここまで酷くないだろうという暫定感溢れすぎるサイト作りである。わたしが忘れかけているHTML言語で書いてやろうかと言いたくなるほど、悲惨だった)、ボランティアについて調べた。
 しかし福島県のボランティア、ねえ。
 正直わたしは、「人の住めない土地になった」と感じている部分が多々なんだよな。これは言っちゃいけないことなのかもしれないけど。少なくとも福島第一原発から80km圏内ぐらいは。ボランティアしてる労力があったら、なにか別のことに回したほうがいい、っていう気がしなくもない。
 しかし調べてみたら判明した。
 県はかなり切実に、ボランティアを必要としていた。そういう情報の発信の雰囲気であった。
 週末の土日には、いわき市行きのボランティアバスまで運行しているという。無論、現地までのボラバスの交通費は無料である。この費用、県が負担しているのか、国が負担しているのか、はたまたいわき市が負担しているのか知らないのだが。
 ボラバスの定員は40人までなんだけど、前日の午後3時まで受け付ける、という。
 夫にもつぶやいた自分の考えが再び頭によぎる。
 ただの自然災害と原発事故の決定的な違いは、瓦礫の処理だ。
 わたしだって故郷が単に津波の被害を受けただけなら、自分の財政状況が許す限りにおいて、ボランティアに参加していた。だが、瓦礫を移動させてどうするのだろうという思いは強い。瓦礫の収集が終わったあと、全国の自治体にばら撒かれたりしたら? 事実、災害と原発事故直後に川崎市が福島県の瓦礫を引き受けようと申し出て、市長が袋叩きにあったのは記憶にまだ生々しい。
 核は、拡散させないことが大切なんだが。
 そのためにも「ひまわりを植えよう」というプロジェクトも囁かれているわけだし。要するにひまわりが放射性物質を吸着してくれるから、その土地に固定して、拡散させないための予防策なんだが。
 しかし夫の手前だけではない。ボラバスが運行されているということも、問題といえば問題である。
 セブンイレブンに来ていた子たちが、かなり若かったのが気にかかった。
 被曝は年寄り限定な!
 よーし、ボラバスの定員を年寄りで埋める意味でも、わたしの参加は意味がある、ということで。
 まずはサイトに記載されている電話番号に連絡してみた。

「もしもし、5月28日土曜日のボランティアに応募したいんですが。定員はまだあいていますでしょうか」

「あ! はい。5月28日ですね。空いております、空いております」

 わたしは当初ちょっとだけ嫌な方向に予測していた(嫌な方向に予測するのが得意なのは自分でも自覚している。19歳の頃からずっと、「いつかはこの国にもチェルノブイリのような悲劇が起きるのでは?」と怯え続けていた。周りにいたらかなりウザい奴であることは間違いないと自分でも思う。だからある時期から発言を控えるように努めていたが)。というのも、わたしが女であるのと、それから年齢である。ボランティアにだって行政がボラバスの運行という「経費」をかけているのである。それで撥ねられるのではないか、と。
 しかし実際はどうだったかというと、即座に受付。名前と連絡先などを尋ねられた。
 集合地は福島県中通り最大の都市、郡山駅西口である。
 実は郡山市、県庁のある福島市よりも栄えている。
 理由はというと、「安積疏水(あさかそすい)」である。
 いでよ、ウィキペディア! ということで、そのまんま情報を貼る。

 安積疏水(あさかそすい)は、猪苗代湖より取水し、福島県郡山市とその周辺地域の安積原野に農業用水・工業用水・飲用水を供給している疏水である。水力発電にも使用される。

 引用、以上。
 ここで注目して欲しいのは、「安積原野」という言葉である。そう、安積疏水というものが引かれるまで、郡山あたり一帯というのは、「原野」だったのである。この辺に伝わる昔話に、

「安達が原の鬼婆」

というのがある。原野に住まう狂女で、通りがかる旅人などを殺してその肉を食べて生きていた。そうなったのは、母親を探しにきた自分の娘を、知らずに殺してしまったからだ、という話だ。
 しかし安積疏水で、街が造られた。農業用水にも使われているが、主に工業の街として、郡山は栄えた。過去の知事選で、

「某候補は、当選したらば福島市から郡山市に県庁を移すらしい」

という悪質なデマが対抗馬陣営から流されてしまい、それで落選した候補者もいたほど、である。
 わたしが高校生ぐらいだった時代までは、駅前には西武デパートが煌びやかに建っていた。ここ最近は郊外店の発達に伴い、駅前が廃れてしまったのでどうなったのかわたしも正直知らないのだが、この駅の西口を降りると安いセクキャバみたいなものの巨大な看板が立っていて、

「美人はおりませんが、可愛い娘なら沢山います!」

と書いてあったもんである。たぶん、もうないだろうと思う。
 それにしてもいわき市にボランティアに行くことになるのか。
 電話の向こうでメモを取っている雰囲気を感じ取りながら、前日に見てきた光景を思い出す。今回は常務にハンドルを預けていたため、車窓の風景をじっくり眺められたのだが、いわきの海岸沿いには、「瓦礫を積んでいるだけ」の光景が道路沿いに延々と続く場所がある。久ノ浜町西には、津波も来たし、火災もあったという。で、そこにもってきて原発事故、と。
 街にはお手製の旗のようなものが貼られている店もあった。

「がんばっぺ、いわき」

 逆に寒々しいんだよな。津波だけじゃなくて原発事故だぞ? 人間がどう「頑張る」というんだ? プルトニウムの半減期って2万4000年だぞ。

 2ちゃんねるでは、スレッドが立ったときに「2ゲット」するのが半ば伝統と化している。要するに、スレッドを立てた人間が「1」で、二番目にそれに書き込んだ人間が「2」だ。その「2」を奪い合うことを競って面白がっていた、ごく初期の頃は。だから2万4000年などという時間を伝え聞くと、どうしても半ば伝説化された栄光の「2ゲット」を思い出すんだが。
 以下、貼ります、伝説の「2get」を。


以前、3のくせに「2get」と書き込んでしまい、 
「2000万年ROMってろ!」と言われてしまった者です。 

言われた通り2000万年間、沢山沢山ROMりました。 
猿から人類への進化… 
途中、「ガットハブグフーン?」と書き込んだジャワ原人に反論しそうになったりもしましたが、 
言いつけを固く守り、唇を咬んでROMに徹しました。 

そして現れては消えていく文明。数え切れないほどの戦争…生と死、生と死。 

2000万年経った今、晴れて縛(いまし)めを解かれた私(わたくし)が、
2get出来るチャンスに今っ!恵まれました。 
感動で…私の胸は張り裂けんばかりです。 

卑弥呼女王、見てますか? 

義経様、清盛様見てますか? 

信長様、秀吉様、家康様見てますか? 

それでは、2000万年の歴史の重みと共に、 
キーボードを叩き壊すほどの情熱をもって打ち込ませていただきます。 

2get! 


 引用、以上。2000万年まではいかないが、2万4000年といえば卑弥呼女王をはるかにさかのぼる旧石器時代である。
 ま、いいやそれは。で、電話口で確認を取られた。

「作業着、安全靴、角型スコップ、マスク、ゴム手袋、飲料水、それから1000円をお弁当代としてご用意ください」

「あ、はい。承知しました」

 ここまではWebで確認済み。しかし角型スコップねえ? あるかなあ、実家で経営している会社に。なければ買うしかないな。高いね、ボランティアをやるのもなかなか。

 すると電話の向こうの窓口の人に尋ねられた。

「それから、ボランティア保険に加入されていますでしょうか?」

 これはかなりぎょっとした。え、なにそれ。そんな保険が必要なの? ていうか、そんな保険がこの世には存在したの?

「いえ、おりません」

「でしたら、現地でお怪我などなされた場合は、ご自分の負担で治療していただくということになりますが、よろしいですね」

「あ……はい」

 うーん、ひとつ勉強になることはなったな。ボランティアって、体力だけがあればいいわけじゃないのね。そりゃそうか。お金も出して、身体も使え、と。ある意味、納得。全部を行政が賄うというのなら、人を直に雇用してしまったほうがいいというか。
 しかし怖いのは「ボランティア保険」なるものなのだった。
 なんだかとても気になるんだが。
 自分で調べてみた。すると判明した。

 た、他人様の大事な壷を割ったときとかにも、「ボランティア保険」は活用されるのか!
 やばいぞ、これは大変、まずい。




 そういうの、全然自信ない。どうしよう、割った壷が骨董品で、

「これは“なんでも鑑定団”で、300万円と評価された家宝の壷です。ですので、責任を取って、300万円お支払いください」

とか言われたら。




 被曝とかなんとかよりも、まず、直近の金の問題が怖いわ!
 慌てて、ボランティア保険を扱っている団体みたいなのに電話する。

「すいません、28日までにボランティア保険に加入したいんですが」

「個人でのご加入というのはないんですよ」

 半泣きで相談する。

「えっ、じゃあ、どうしたら。わたし、福島のいわき市のボランティアに応募しちゃったんです」

「では自治体とご相談なさってみてください」

 えっ、えー。
 どうしよう、本当に本当にどうしよう。
 慌ててもう一度、ボランティア受付の窓口に電話する。

「すいません、28日にいわき市にボランティアに行きたいと志願した者ですが、ボランティア保険にはどうやったら加入できるでしょう? 加入したいんです!」

 ほとんど叫ぶように相談する。本気でパニック。
 すると電話口で応対してくれた人が笑う。

「ああ、西口で受付するときに“ボランティア保険に加入したい”と一言おっしゃっていただければ、その場で加入できますので」

「あっ、そーなんですか」

「はい、そうです」

「では28日、改めてよろしくお願いします」

 すごく、気が抜けた。
 なんだもう、それならそうと、最初に教えてよ。不親切ねえ、もう。
 わたしはこの時期、友人たちに無事の報告を兼ねて、mixiに友人限定の公開日記を書いていたのだが、ボランティアに行くことになったと報告すると、土木現場の作業を経験したことのある男の子がかなり親身になって教えてくれた。

「粉塵対策のゴーグルと、粉塵対策のマスクが必要ですよ。どちらもDIYショップで入手できるかと思います。被曝も危険ですけど、現場はおそらくアスベストでたっぷりだと思いますから」


 これは大変有効なアドバイスであった。実際、わたしも、いわき市の津波の被災地を歩いていて、
「あ、粉塵を吸ったな」

と感覚で解った瞬間が多々あった。実際、夜中に幾度も咳き込んだし。だから瓦礫の多い地帯にボランティアにこれから行こうと思われる方は、このアドバイスは活用したほうがいいと真面目に思う。しかしアスベストも「人災」である。あれはもともと、国が、「防火のために」建築業界に義務付けたという過去があるんだから。建築関係者でアスベストの粉塵を吸わずに済んだ労働者っていないんじゃないの?
 なお、先に書いてしまうが、実際に28日にわたしがボランティアに行けたかどうかというと、前日になって連絡が入り、

「明日は雨のため、野外活動が難しく、ボランティアバスの運行は見送りとなりました」

となってしまったのだが。もっともこのときのためにあちこちを駆けずり回って道具だけ揃えたのと、夫に言われたのがよっぽど悔しかったらしく、わたしは後に「リベンジですよ、ボランティア」ということになるのだが、それは後日の話とする。
 一方この頃、福島で何が起きていたか。
 わたしのハードディスク内の保存ファイルを開くたびに、悔しさに唇を噛み締める事態が起きていた。以下、引用。


放射性物質を消す“奇跡の水”「創生水」 飯舘村「創生水を復興の旗印に」

 福島第一原発から北西約40キロメートルに位置する福島県飯舘村。この村は積算放射線量が高かったため、計画的避難地域に指定されている。そんな飯舘村の住民が、今、かすかな希望としている水がある。それは放射性物質を消し去るという「創生水」。飯舘村農業委員会の会長を務める菅野宗夫氏がこう説明する。 
「この水で放射線に汚染された野菜を洗えば元通りになり、田んぼや川、牧草、牛の乳も、この水に浸せば放射性物質が完全に消え去る可能性があるんです。私たち地区住民200人は、創生水を復興の旗印にしていくつもりです」 
 この「創生水」とは、長野県上田市に本社を置く科学機器メーカー「創生ワールド」が開発した水。現在、同社は飯舘村の住民に「創生水」と、1台約200万円という高価な生成器を無償提供している。「創生水」の開発に関わった同社社長の深井利春氏は、 
「様々な病気を引き起こす活性酵素を吸着して除去する作用を持ち、健康によいといわれる還元水の一種」と説明する。 
「創生水は油と混ざり合う性質があります。“水と油”という慣用句があるように、これは水道水など一般的な水ではありえません。分子が小さく、界面活性力を持つ創生水だからこそ実現できることでもあります」(深井氏) 
 界面活性力とは、性質の違うふたつ以上の物質の境界面を活性化する力のことで、「創生水」はこれを活性化(乳化)する機能があるのだとか。 
「この機能により、シャンプーや手洗いはもちろん、油にまみれた食器を洗うのにも洗剤を必要としません。使ったことのない人には信じがたいでしょうが、現に創生水だけを使用し、シャンプーや洗剤を使わない美容室や飲食店、クリーニング店は東京都内など全国に1千店近くあります」(深井氏) 
 そのうちの1店、東京・銀座にある焼き肉店「ぴょんぴょん舎 GINZA UNA」では、実際に洗い場で洗剤を一切使わず油まみれの皿を洗浄している。活性酵素、還元水、界面活性力など、難しい言葉が並ぶが、一流企業の検査機関でも、その効能が証明されたという。 
 “奇跡の水”、はたしてその正体は? 


 引用、以上。
 どうだろうか、この、えげつなさは。
 水の分子の大きさを変えられたとしたら、ノーベル賞ものである。
 界面活性力は、洗剤自体がその力を持つ。そしてその「創生水」とやらで、どうやって「放射性物質」が消えるというのか。放射性物質の「半減期」を変えられたとしたら、これまたノーベル賞ものである。
 農業委員会の会長というのは、長くその土地で農業に従事して、かなり積極的に地域振興に関わった人が納まることが多い。イメージとしては、農村のご意見番というか、長(おさ)というか、この人がよしと言えば、新規就農者にも農地を売ってもらえたりとかするのである。もっともその分、農業にかける情熱も強いと同時に、ある意味では口うるさい存在でもあったりもする。だが、その人に認められるということは、「一人前の農夫である」との、農家免許の取得を意味するような側面もある。
 こうした農業委員会の存在が邪魔をして企業が大規模農業の着手ができなかったりとか、昨今ではその弊害ばかりが取り沙汰されてきた農業委員会であるが、本当の意味で地域を守ってきたのもまた、この人たちなのである。
 わたしは、悔しい。
 飯舘村農業委員会の会長を務める菅野宗夫氏に直にお会いして、

「どうかこんなえげつない連中に騙されないでくれ」

と土下座してでも頼みたい。
 しかしそれ以上に悔しいのは、ここまで飯舘村を異常心理にまで追い詰めた政府の無策さである。IAEAが避難勧告を促したときに、飯舘村から住人たちを避難させれば済んだ話なのだ。飯舘村の長泥コミュニティセンターは、例えば5月16日0:00の測定で、11.10μSv/h。仮に屋内ならば放射線を浴びないと仮定してもだ(そんなことはありえないが)。農業従事者が野外で作業する時間を1日6時間程度としても(これも、現実にはありえない。農繁期の作業というのは、早朝から日暮れまでである)、軽く年間被曝量は20mSvは超える計算になるのである。世界から頭がおかしいと言われている被曝量すら、余裕で超える。わたしの計算に狂いがなければ、そうである。

 そんな場所で作付けをしろと。
 そんな場所で草刈をやれと。
 そんな場所で収穫をしろと。
 わたしが網羅しているニュースに見落としがないとしたなら、政府は一言も約束はしていない。「汚染された作物でも買い取る」とは。
 人が住めないような大地に汚染されて、自らの力で生きていく術を奪われて、そしてどうやって「活路」を見いだせというのだ。
 言うな、わたしの前で「がんばろう、ふくしま」などと。
 自己責任の問題にすり替えるのを、わたしは許さない。
 これは国のエネルギー政策がもたらした罪だ。

 この約1カ月後の2011年6月22日、枝野官房長官は記者会見で、東京電力福島第一原子力発電所事故で全域が計画的避難区域となった福島県飯舘村が福島市に役場機能を移したことについて、「大変なご無理をお願いしている」と陳謝した。
 いまさら謝罪の言葉などはいらない。必要なのは、「計画避難区域」に指定することではなく、「強制避難」に切り替えることである。




時事音痴番外編/福島記5

 ようやく福島県が「公式の」サイトで掲載している環境放射能の測定方法の実態が解ったので、ここでまずはご報告しようと思う。
 県のサイトには下記の窓口への電話番号が記されている。

 原子力災害全般に関する問い合わせ窓口(経済産業省原子力安全・保安院原子力安全広報課)

 わたしはどうしても確認しておきたかったことがあった。

「県で公表されている数値は、地表からどの高さで測定しているのか」

である。それでようやくつながった窓口の電話で尋ねた。
 すると、

「地表1mから1.5mですね」

という、じつに曖昧な数字を伝えられた。
 この「福島記」を連続してお読みになっている方ならご記憶かもしれないが、危機感を抱く福島県の親たちは、子供のために、せめて環境放射能が少ない学区に移住しようと右往左往している。何故、このように曖昧な数値を「公式」にしているのかと次に尋ねた。すると「測定は文部科学省の担当なので、文部科学省に尋ねてみてくれ」と、お役所得意技の「たらいまわし術」を使われた。
 仕方なく教えられた番号に電話した。すると、

「文部科学省は一応、1mを基本にしているんですがねえ。場合によっていろいろありますから」

と、まったく訳のわからない答えが返ってきた。
 しばらく「だからどういう“場合によって”なのか」「いやだから“場合によって”ですよ」というようなやり取りを繰り返すことになった。暖簾に腕押しである。
 だんだん我慢ができなくなったので、ちょっと怒りをこめて告げてしまった。

「その“場合によって”が、文部科学省さんではご説明いただけないということですね。ならばわたし、それをそのまま原稿に書かせていただきます」

 するといきなり応対していた人の態度が変わった。生ぬるくない、容赦ない響きの声である。

「なんだ、あなたマスコミの人なの? 駄目じゃない。最初にそれを言わなきゃあ」
 
 なんで叱られてるんだ?
 わたしは原稿も書いてはいるが、ただの一市民である。たとえこういう場で原稿を公表する機会を持っているとしても、基本は住民税に追われ、消費税を払う、ただの一市民に過ぎない。この原稿と個人のブログとの差といえば、プロの編集者の目が通されることと、
「間違ったことを書くと公的な責任が生じ、なおかつ、猛烈な勢いで叩かれるだけ」
ということぐらいじゃないのか。
 すると文部科学省の人は、マスコミ担当だという人に電話をまわすという。わたしには何を言われているのか理解しがたかったし、これが真実だとも思いたくはないのだが、その人の言葉をそのまま記すとこうである。

「要するに、車を降りたときに手に持っていたガイガーカウンターの値なんです」

 だから「だいたい1mから1.5m」という曖昧な数値だったのか!
 でも本当なのか? きちんと高さ1mにモニタリング・ポストを置いて測定はしていないのか? わたしは自分が聞いたことが、自分自身でもいまだ信じられずに、正直、おろおろしている。陰謀論を信じるのはUFOの存在を信じるのと同じぐらい馬鹿げたことだと思っているのだけれども、
「もしかして、わたしに間違った情報を握らせることで、わたしを叩かせる罠なんだろうか?」
と疑っているほどだ。わたしは、信じたい。福島県はせめて正しく1mの高さにモニタリング・ポストを設置していると。
 なぜわたしがここまで測定の高さについてこだわっているのかも、ご説明しておきたい。
 この「福島記」、時系列順に原稿を書くつもりでいたのだが、ごく最近の話をしよう。この原稿を打っているのは2011年6月20日である。
 この日をさかのぼること3日前、わたし姉のもとに、性能の高いガイガーカウンターが届いた。価格は9万円ほどだったと聞く。個人がこんなものを所有しなくてはならないという時点でまさに「世も末」である。
 姉は現在、薬剤師の仕事の傍ら、実家が経営する会社の仕事も手伝っている。まず、社屋のなかの数値を計測した。実家は福島県西白河郡西郷村、栃木との県境のあたりに位置する。隣は酪農が盛んな栃木県那須町。夏場の避暑地でもあり、御用邸もある。姉がガイガー・カウンターを入手した6月17日、県のオフィシャル・サイトで公表されている「西郷村役場(福島第一原発からの距離、西南西に約84km)」の環境放射能の数値は、0.60μSv/h。
 さて姉が測定してみて。
 社屋のなかの環境放射能の数値は、

「0.1μSv/h」

であったそうだ。全員で胸をなでおろしたという。これだって異様といえば異様なんだが、日常的にここで生活しなくてはならない人間には重要な話だ。屋内退避というのは、あながち間違った手法ではないのだとも、わたしも学んだ。次に姉は、高い数値が出ると巷で噂の雨どいの下を計測した。社員全員で姉の手元を覗き込んでいたという。
 すると叩き出された数値は、

「6μSv/h」

であった。社員全員でパニック状態になり、社屋のなかに退避したという。どうでもいい話だが、この雨どいの下はわたしがよくしゃがんでタバコをふかしていた場所だったので(そうです、わたしは35歳になって、世間で喫煙バッシングがいよいよ激しく勢いを増した時代に喫煙デビューしたという、どういう馬鹿だよという愚か者です)、会社の人たちは心配してくれたらしい。

「マキちゃん、だいぶ被曝したんでねえの?」

と。大丈夫、わたしは健康体である。DNAが自己修復してくれたさ、たぶん。
 どうしてわたしがしつこく保安院だの文部科学省だのに電話していたかというと、ガイガー・カウンターの扱いというのはかなり難しいと聞くし、姉がもし正しく使用していたとしたなら、県が公表している数値と合致しているはずだと考えたからだ。よく、ガイガー・カウンターの扱いを間違えて、高い数値にパニックになっている個人のブログなどは目にしていたからである。
 だからわたしはその話を姉から聞いて、尋ねた。

「お姉ちゃん、周囲の草の上は測定した?」

「まだなの。怖くて」

「高いっていう話だよね。高さ1mで測ってみて」

「でもね、マキコ。草地を測るのはいいけれど、わたしたちにその草をどこに持っていって処理しろというの? わたしは言いたい。東電に買い取ってくれって」

 当然だ。被曝しながらの草刈りである。そしてそれを「燃えるごみ」などの廃棄物にまわせば、今度は大気が汚染される。個人の判断ではどうしようもない。わたしは現在、福島からいま仮住まいしている場所に戻ってきたが、福島から出るときに、

「いったいどの時点で、着衣や靴を捨てたらいいのか?」

という問題で、大変、悩んだ。東北新幹線に乗車する前? いや、東北新幹線のなかもかなり汚染されているだろう。では東京駅で? いや、東京駅も人の往来が激しい。
 結局結論が出ず、いまの仮住まいにビニール袋に詰めたまま持ち帰ってきてしまった。自分自身が汚染物質の運び屋になる。避けようもなく。本当にやるせない気持ちになる。
 話を戻そう。以前にちらっと聞き及んではいたのだ。

「県は高さ1mから環境放射能の値を測定している」とは。

 だからわたしはこの日、結局、渋る姉をせっついて、高さきっちり1mで姉に会社の側の空き地で測定してもらっている。すると「0.5~0.6μSv/h」という値が出たという。これはほぼ県のオフィシャル・サイトの数字と変わらない。だから姉はガイガー・カウンターの扱いは間違っていないと言えるだろう。
 それで、どうしてわたしが高さにこだわったかといえば、「放射線の被曝量rは距離dの二乗に反比例する」と学んだからである。数式にすると「r=1/d2(二乗を表す数式の表示方法がわからない。ようするに2を二乗の2だとご理解ください)」だという。だからしきりと測定位置の「高さ」にこだわったのである。
 しかし本当に文部科学省はそんな「出たとこ勝負」みたいな測定方法なんだろうか。解らない。ひとつだけ言えることがあるとすれば、「高さ80mの県庁の屋上にモニタリング・ポストを置いた宮城県はいったい何を考えてるんだ?」ということぐらいだろうか。それは後で引用するヴァルター・ヴィルディ教授のインタビュー記事とも関連が深い。
 さて、5月22日の「福島」を記す試みを始めよう。

 この頃に作られたわたしのハードディスクのファイルには、さまざまな記事が保存されて残っている。ネット上の記事なので、いつ消されるか解らず、コピー&ペーストして残しておいたのだ。
 印象的なものに、少し日付は古いが、このようなものがある。

「原発に絶対の安全は存在しない」と主張するスイス政府の原子力安全委員会長を5年間務めたジュネーブ大学研究所長ヴァルター・ヴィルディ教授のインタビュー記事だ。長いので、その一部を抜粋する。以下、抜粋。


福島第一原発事故、避難指示圏を半径40キロに拡張を!

(山崎注:ヴィルディ氏の談話)今後放射能濃度が高くなる地域は、風と雨に大いに影響される。現在、汚染地域は、福島第一原発から内陸に向かって水平に細長く広がり、さらに北西と南西に広がる傾向を見せている。では東京はどうかというと、現在の状況からは何とも言えない。(山崎付記:ヴィルディ氏の談話が正しければ、だから宮城県もかなり汚染されているはずなのである)
 わたしの考えでは現在、半径40キロ圏内が、場所によるばらつきはあるが汚染されている。今後この土地に再び住めるかどうかだが、地表から深さ20~40センチメートルまでの土を取り除き、これを放射能が出ないような形でどこかの場所に保存するという計画も検討中だと聞いた。しかし、それはとてつもない量の土で難しいだろう。風景も完全に変わるだろう。
 チェルノブイリでは、およそ半径30~40キロ圏の汚染地域から人を完全に転居させた。25年たった現在、政府当局は数百人の高齢者にのみ再入居を許可した。というのも、放射能を今後何年間か蓄積してがんになるとしても高齢者にとっては (寿命と) 同じだからだ。
(中略)
 半径20キロ圏内の住民は避難したが、40キロの地域でも高い濃度が観測されたことから今後20キロから40キロ圏内の人々のがんにかかる可能性は高まっていく。ヨードやセシウムだけに限らず、重いために遠くまで飛散はしないが非常に危険なプルトニウムでさえ、この圏内には存在しうる。第3号機にプルトニウム・ウラン混合酸化物燃料MOXが使用されているからだ。
 こうした状況でなぜ日本政府は半径30キロ圏内を 責任を回避する形での自主避難要請にしたのか理解に苦しむ。30キロではなく、40キロ圏内をただちに避難指示圏にすべきだ。
 予測できるのは、補償金の問題だ。
             (「swissinfo.ch」20114月5日)


 抜粋、以上。ずいぶん長い抜粋になってしまったが、わたしも同感である。避難指示を拡大しないのは全て「経済的都合により」だとしか思えない。国民の健康、そして生命など考えられてはいない。県内の環境放射能を見ると、半径40キロ圏内には無残な数値が叩き出されている。どうもわたしのなかでは曖昧な印象になってしまった数値ではあるが、それでも公のものだからあくまで信じるとして、ぱっと目についた数字だけでも凄まじいものがあるのだ。

葛尾村「柏原地区」5月1日(日)福島第一原発からの距離西北西約23km 9.01μSv/h

飯館村「長泥コミュニティセンター」5月1日(日) 福島第一原発からの距離北西約39km 11.55μSv/h


 数値が高すぎて、絶句するしかない。どうして政府はIAEAからの飯館村に対する避難勧告を無視したのか、理解できない。福島の「土民」は、日本経済のためにみんな死ねばいいと思われていると考えているのだろうか。
 もうひとつ、記事が削除される前に保存しておいたこの時期の記事を並べることで、いかにこの国でいま非人道的なことが行われているかを示してみよう。以下、抜粋。


福島原発事故 子供の被曝許容量はチェルノブイリの4倍相当

 いまだなお収束のめどが立たない福島第一原発事故について、チェルノブイリ事故直後から現地を取材し続ける『DAYS JAPAN』編集長で、フォトジャーナリスト・広河隆一氏がレポートする。(中略)

 福島市と郡山市の学校の土壌が放射能に汚染されていることを受け、政府は子供の被曝量の基準値を、毎時3.8マイクロシーベルト、年間20ミリシーベルトとした。これには国内からだけでなく、世界から猛烈な批判が出ている。
(中略)
 それが特に子供たちにとっていかに高い被曝量であるかは、私の知る限り、チェルノブイリに汚染された土地のどの地域を居住禁止地区にするかについて、1991年にウクライナ議会が行った決定が参考になる。そこでは1平方キロメートルあたり15キュリー(放射能の旧単位)の汚染地域を立ち入り禁止地区とする、つまり居住禁止地区に規定したのだ。現在の単位に換算して、ここに住むと、年間5ミリシーベルト被曝してしまうという理由である。
 日本ではその4倍を許容量として、子供たちの学校の使用を許可したのである。また、「毎時3.8マイクロシーベルト」という数字は、いまは死の街となったプリピャチ市の数値とほぼ同じである。
              (「newsポストセブン」5月18日)

 抜粋、以上。
 3.8μSv/hという数字は、県が公表しているサイトを連日のように眺めていると、「あら、本日も高止まりですね?」という感じで、なんとういうか、「円高が続いて困ったことだ」ぐらいの慣れた感覚になってきてしまうのだが、よくよく考えると正気の沙汰ではないのである。旧ソ連が居住禁止地区にしたほどの汚染地帯にすら、現政府は人を住まわせている。未来ある子供たちも、である。

 ではようやく、5月22日、日曜日の話に入ろう。
 わたしはまたもや母に急かされた。
 この日は会社も休日ということで、56歳になる会社の常務(独身)が暇をもてあましているのであった。
 母が言う。

「常務の運転で、おまえが行きたいところに、どこにでも連れて行ってもらいましょう!」

 この時点で、わたしの「銀行のキャッシュカード」みたいな、使い道のないガイガーカウンターも届いていなかった。やたらと福島県内を走り回ったところで、なにか収穫があるのだろうか。線量の浴び損ではないのか? という気がしたのだが、やはり気になるのは飯舘村と相馬市である。
 飯舘村はIAEAからの勧告を受けた場所ということで気になるし、その先まで走って海沿いの「浜通り」に出ると相馬市がある。ここは、「松川浦」という天然の干潟のようなものを抱えている。
 相馬はとてもいい町であった。
 相馬野馬追い(そうまのまおい)という行事が盛んな土地柄で、一度、父のRV車に、飼っていた柴犬を乗せて相馬の海岸まで遊びに行ったことがある。
 犬は、初めて目にする広大な「池」のようなものに、驚いている様子だった。波打ち際まで近寄る。そして波が近づいてくると逃げる。それなりに楽しんでいる、ようではあった。
 そのときだった。
 リードを離されていた犬が、ぎょっとしたように立ち止まり、慌ててわたしの方角に逃げてきてから威嚇するように吼えた。
 その方角には、悠然と、海岸を歩く白馬。
 そう、相馬は、一市民でも、白馬とか飼っちゃうんである。すべて、野馬追いのため。わたしは自分の飼い犬の度胸のなさをしみじみと知った。春になるとこの雄犬、よく逃亡しては恋の季節を楽しんできていたのだが(かなり広い敷地で飼っていたのに、この季節だけは必ず逃亡。そしてよそ様のお宅のお嬢さんに手を出して、血統書つきのコリーと柴犬の雑種のような子犬を沢山産ませたりしていた)、馬を見ると逃げる。情けない。ああ情けない。
 野馬追いでは、戦国時代の騎乗戦のようなものが模擬的に行われる。わたしは直には目にしたことがないのだが、福島の地方局ではよく野馬追いの行事はレポートされていた。
 しかし今回のような津波の災害は、相馬の地形を考えると激しいと思われた。問題は、松川浦である。干潟のような平坦な土地が延々と続く。ちなみに、相馬市を浜沿いに東京方面に南下すると、米タイム誌の「世界で最も影響力のある100人」に選ばれた市長のいる南相馬市がある。 南相馬市をさらに南下すると、浪江町という小さな自治体をはさんで、福島第一原発のある双葉町と大熊町になる。
 わたしは父によく相馬市に連れて行ってもらって、カレイなんかも釣ったものである。だから記憶のなかの相馬に愛着もあった。
 かなり迷ったのだが、母に、

「じゃあ、飯舘村と相馬に……」

と言ってみた。行くだけ無駄だという気がしたが、動かないよりはましである。
 わたしは当初想像していた。
 福島第一原発のある浜通りの幹線道路、国道6号線はたぶん封鎖されていると。福島県としては大動脈なのだが、半径20Km圏内に、もろに被っているのである。
 しかし常務はいたって呑気だった。わたしが前回使った「あぶくま高原道路」という高速道路を使って、 福島第一原発のそばを通り、相馬に至るというプランを練っている。

「でぇじ、でぇじ、(大丈夫、大丈夫)、行けるって、行ける」

と、なぜか自信満々である。
 行けないと思うけどなあ。まあ、いいけど。
 前回のように、国道四号線から「あぶくま高原道路」に入る。すると石川母畑ICを抜けて少ししたところの山間に、小さなサービスエリアがあった。ちなみに道は前回同様、まったく交通量はない。
 ここでわたしはトイレに行きたくなった。
 朝、目を醒ますためにコーヒーをがぶ飲みしたせいである。
 常務に頼んでサービスエリアに立ち寄ってもらった。
 するとそこには、見た目、4トントラックぐらいはある巨大な自衛隊の車が停車していたのである。 「災害派遣なんとか」と、車体に旗が貼ってある。実にものものしい。
 吉田茂元首相が昭和32年、防衛大学の卒業生たちに送ったという言葉を、mixiのマイミクの子から教えてもらったのだが、それが脳裏をよぎった。

「君達は自衛隊在職中、決して国民から感謝されたり、歓迎されることなく自衛隊を終わるかもしれない。きっと非難とか叱咤ばかりの一生かもしれない。御苦労だと思う。しかし自衛隊が国民から歓迎されちやほやされる事態とは、外国から攻撃されて国家存亡の時とか災害派遣の時とか、国民が困窮し国家が混乱に直面している時だけなのだ。言葉を換えれば、君達が日陰者である時のほうが、国民や日本は幸せなのだ。どうか、耐えてもらいたい」

 この後もわたしはたびたび感じるようになるのだが、災害の地に自衛隊員が行ってくれるというだけで心強いのである。
 国民は困窮し、国家は混乱に直面している。
 それを目の当たりにしているという思いが強くなる。
 トイレに入って戻ってくると、なぜか常務が自衛隊の人たちと談笑している。そして満面の笑顔で戻ってきた。

「アレ、化学防護車っつうんだって! 車体が鉛でできてるって教えてもらっちゃ。機銃掃射ができる、えーと、アレを前につけられるんだど」

 ミリタリーオタクじゃないからよく知らないけど、それは機関銃か?
 というか、わたしより常務が取材して廻ったほうがいいんじゃないか。だれも用心深くならないし。
 常務がわたしに教える。

「4人しか乗れねえっつうんだわ。中を見してくれって頼んだんだけど。なかは俺らには見しられないって断っちゃわ(内部は俺たちには見せられないというので断られたわ)」

 軍用機の内部を、見せるわけないだろう! 一般人に。
 わたしは聞いたことがある。元自衛官の人から。
 なんでも潜水艦というのは、いったい何時、どこに向かって、どういう目的で沈降するのか教えられないまま、直前になって命令が下るのだという。で、沈降してから行き先やその目的、そして潜水艦で潜っている期間なども知る、と。これが原因でごく一般的な家庭生活が送れずに離婚する自衛官というのは多いんだという。
 そりゃまあそうだろうと思う。わたしはかなり身勝手な人間で、福島にいるあいだも、三日に一度ぐらい母に注意勧告を受けてしぶしぶ相方に連絡を入れていたが、それでも三日に一度は連絡を入れていたのだから。ところが潜水艦。ドコモの家族無料通話も使えない。
 仮に使えたとしても、だ。このような会話が交わされるとする。

「あなた、いまどこにいるの?」

「うん。尖閣諸島のあたりだよ」

 一発で機密漏えいだから!
 ま、それはいいとして。常務の怖いものしらずのこの姿勢、学ぶものはあるな。化学防護車ってことは、かなりF1、福島第一原発に接近すると思われる。
 わたしも頑張って話しかけてみよう。せめて、感謝の気持ちだけでも伝えたい。邪魔かもしれないが。
 ちょうど喫煙所で4人の自衛隊員の人のうちの2人がタバコを吸っていたので、これをタイミングとする。

「お疲れ様です!」

「はっ、ありがとうございます」

「これからなんの任務に赴かれるんですか?」

「はい、10km圏内でのご遺体の収容であります」

 非常に重苦しい気分に陥った。
 津波の被災だけだったら、「わたしたちの代わりに被災者の方々のお力になってください。よろしくお願いします」と頭を下げられたと思う。だが、この若い命が強い放射線に晒されての任務だと思うと、わたしは「行かなくていい!」と言いたくなってしまう。ご遺族のお気持ちも解るのだけれども。
 ちょうど2人とも、マルボロのメンソールを吸っていた。わたしのエコバッグには、通常の緑のメンソールも、ブルーのアイスブレストも入っていた。以前はセブンスターだったのだが、JTのフィルター工場が被災地にあったとかでセブンスターが手に入らなくなり、マルボロに切り替えたのである。
 両方の箱をあけて、おずおずと差し出してみた。

「あの、いかがですか。お好きなほうを1本だけでも吸っていただければ」

 背筋がぴんと伸びた姿勢で敬礼された。

「ありがたく頂戴します!」

 ふたりともアイスブレストを選んだ。なんだか少しだけ気持ちが安らいだ。
 10km圏内。プルトニウムも拡散しているだろう。認めたくない事実だが。MOX燃料さえなければまだましだったのに。
 嫌煙家の皆様には理解しにくいと思うし、事実、わたしも長く嫌煙家だったからその気持ちも解るのだけれども、

「原発事故のせいで肺がんになった」

と思うよりも、

「自己責任で肺がんになった」

と思うほうが、心は安らぐ。解るかなあ? まあ、無理に理解してくれとは言わないけれど。
 微妙な質問を振る。

「ご自身もその、浴びますよね?」

「はい。自分も浴びますが、それよりも任務遂行で」

 どこか素朴な東北のイントネーションが印象的だった。

「どちらからいらっしゃったんですか?」

「山形です」

 あそこは、汚染が少ないはず。ずっと駐屯地に居られたらよかったのに。

「いまはどちらで寝泊りされてるのでしょう」

「郡山の体育館です」

「お風呂は大丈夫ですか?」

「ときどき駐屯地まで戻って済ませております」

 次第に胸が痛くなった。馬鹿、自分の馬鹿、みみっちく自分に残さず、箱ごと渡せよ。他になにか自衛官の人たちに直接出来る機会なんてないんだから。
 2人は大切そうに1本のマルボロをポケットにしまった。
 どうか任務のあいだのせめてもの気晴らしになって欲しい。アイスブレスト。
 やるせない気分のまま、常務が運転する車に戻った。この辺で気づいた。

「あぶくま高原道路」を行きかう、というか、一方的に浜通りへと向かう車ばかりなのだが、全部「災害派遣」の自衛隊の車ばかりだ。
 再び吉田茂の言葉が脳裏をよぎった。「自衛隊がちやほやされるのは、国民が困窮し国家が混乱に直面している時だけ」。
 吉田茂については、わたしはあまり知識がないのだが、けっこう物事を見通す目を持っていた人物だったのかもしれないと思った。彼自身は高知の家柄から出身したと記憶している。成長したのは東京とか横浜であるらしいが。
 だから高知では吉田茂が首相になったとき、貧しい高知が豊かになるのかと期待したと聞く。だが、彼は高知を一切、省みなかった。だから高知はいまでもインフラがろくに整わず(諸事情により、それを体感することになった)、愉快なことに、いまだに高知市内には路面電車が走っている。おかげで地方都市で言うところの70年代ぐらいの町並みが高知市内では保たれており、商店街が元気ではある。ただし、最低賃金は、沖縄といつも最下位を争っている。
 それはさておき。
 こうして自衛車両を眺めながら、常務の運転で再び浜通りへと出た。6号線を北上する。
 すると常務が驚きだした。

「なんだい、全然信号がついてないじゃないの」

 津波のことはさんざん母から聞かされていたから、さほど驚かなかった常務であるが、信号には驚いたようだ。そして気の狂ったように突っ込んでくる車に慌てる常務。正直、思う。五月中旬、中通りには徳島県警や愛知県警の車両が多数巡回していたが、浜通りのほうに重点的に配置したほうが治安は安定する、と。
 しかし怪しい雲行きだ。空が、ではない。嫌な予感が的中しそうだということである。
 やがて行きかう車もなくなったころ、ついに突き当たった。「立ち入り禁止」の看板と、警察の装甲車に。
 実にものものしく、道路を封鎖している。
 ちなみに警察官たちの人の服装は通常通りであった。全部で8人ぐらいで封鎖していたように見えた。防護服とかは着用していなかった。マスクすらもない。外部被曝も危険だが、息をしているのだって危ない。人員を配置しないで済むような手段はないのか?
 ちなみに看板にはこのような表記が赤字で書かれていた。

「災害対策基本法により立ち入り禁止 許可なく立ち入ると、災害対策基本法第十六条一項第二号の規定により、罰せられることがあります 福島県」 

 噂は本当だったんだと知る。許可なく20km圏内に立ち入ると罰せられるという、ネット上で流れていた噂を、わたしは確かめた。
 常務は福島県の会津出身である。ここでも常務の会津弁が大活躍してくれた。
 厳しい面持ちで近づいてくる警官に対して、

「すいません、このさぎ(この先)、いげねーんですが(行けないんですか)。 俺、相馬まで、いぎでーんですげど(行きたいんですけど)」

と、いかにも、

「田舎にいて、情報遮断されてます! 写るテレビは、いぬいちけー(NHKを、会津弁ではこのように発音する)だけ。インターネッツは何するもんだ?」

みたいな顔をしてみせる。実際、常務はそういう男ではあるのだが。わたしが同じように演じたら、かなり怪しまれたと思う。
 警官も苦笑する。

「すませんねえ、この先は行けないんで、戻ってもらえますか」

「どうやったら相馬まで、いげんだべか(行けるんだろうか)」

「一度、中通りに戻ってもらうしかないんですよ」

 さてわたしは警察官が離れていったあと、密かに看板などをズームで盗み撮りしていた。看板にどう書かれているかを、正確にここで伝えたかったからだ。別に隠れてしなくてもいいとは思うのだが、以前、うっかり警察官を撮影してしまったことがあって、怒鳴られたあげく、デジタルデータの消去を求められた苦い経験があるからだ。
 ちなみに帰宅してネットで法律を調べたが、「災害対策基本法第十六条一項第二号」には、無許可で指定された地域に立ち入ると罰せられるといったような文面は、わたしの法の解釈では読み取れなかった。
 以前、福島第一原発を取材に行ったときのことを思い出した。
 正門の前に装甲車が1台。テロを警戒した警官が大きな銃(すいません、あくまでミリタリーオタクではないので、拳銃でないことは確かなんですが、猟銃でもないし、あれはなんだったのかわからないんですが、大きさとしては猟銃ぐらいあって、でも猟銃ではなかったなにかである)を肩にひっかけて、ぶらぶらしていた。わたしはそのとき、

「テロを警戒しないとならないようなヤバいもんをそもそも作るなよ!」

と内心思ったのだが、テロの警戒など心配しなくても、日本自体が世界にテロを仕掛けているようなものである。
 この日、帰宅したら知人からケータイに着信があった。

「あなた、以前、台湾に行ってすごく楽しかったって言っていたけど。どこを観光したらいいの?」

「まさかこの時期に海外旅行?」

「ちょっとね」

「前から思ってたけど、頭おかしくない? まあいいや。A-Openに行けば」

「頭おかしいってなによ。まあいいわ、エーオープン? それはどこ、どんなところ」

「台湾にあるPCメーカーだよ。ベルトコンベアの流れ作業にでも加わってみ。すげえ楽しい。全然、現地の高校生たちの作業に追いつかないから」

 台湾には日本で言うところの「夜間学校」のようなものがあるのだが、少しシステムが違っていて、数ヶ月働いて学費を稼ぎ、数ヶ月学んで、また会社の寮に戻ってくるというのを繰り返しているのである。日本の「女子高生」に慣れたわたしたちの目には、黒い髪の毛を三つ編みに結い、無論、化粧ひとつも施さず、寮から工場まで規則正しく行進して歩く姿を見るだけで、なにか感じるところがあると思う。

「……それは取材で行ったわけ?」

「まあね」

「全然、役に立たない情報ね」

 台湾は親日国だ。けれど日本ほどまだ豊かではない。だというのに80億円も義捐金を拠出してくれた。その台湾に我々がしたことは、原子炉の輸出だった。なにが「日本初の原子炉の輸出として注目される」だろうか。武器商人とどっちがヤクザな稼業だろうか。
 わたしは、恥じる。

時事音痴番外編/福島記4

 2011年5月21日の「福島」を記す試みです。
 この日を遡ること5月13日、日テレNEWS24のサイトでは、このような報道が行われていた。以下、引用。


福島県6市町村のタケノコ、出荷制限~政府 

 政府は13日、国の基準値を超える放射性物質が検出されたとして、福島県の南相馬市などで生産されるタケノコを出荷しないよう指示した。 

 出荷制限が指示されたのは、福島県の南相馬市、本宮市、桑折町、国見町、川俣町、西郷村で生産されるタケノコ。いずれの市町村でも、今月9日にサンプル調査のために採取したタケノコから国の基準値を超える放射性セシウムが検出されており、最も量が多かった南相馬市では、基準値の約5倍となる2400ベクレルだったという。放射性ヨウ素は検出されなかった。 


 引用、以上。
 この「福島記」をずっと連続してお読みの方なら福島の地理に詳しくなってきているかと思われるが、ここで着目して欲しいのは、サンプル調査された「西郷村」である。福島第一原発とは山脈ひとつ隔てた「中通り」にあるわたしの故郷である。福島第一原発から84Km地点に位置し、隣は栃木県那須町と白河市である。
 福島に行こうと決めてから、わたしは福島県内で小学校教員をやっている友人に何度か連絡を取ろうと試みていた。どれだけ学校給食の現場が混乱しているのかを、彼女から聞いてみたかった。
 しかし、いくらケータイに連絡を入れも、一向に応じてくれないので疑心暗鬼に陥っていた矢先だった。
 警戒されているのだろうか、と。
 彼女の美点は小学生の頃から認めていた。

「物事の明るい可能性だけみつめる」

 それはわたしには欠けている種類のものだったので、とても憧れてもいたし、好きだなあと思っていた時期は長い。
 結婚式のスピーチもお願いされた仲である。
 もっともその後、彼女とは微妙に距離ができた。

「地元が一番!」

が口癖の彼女と、地元を避けるようにして生きてきたわたしと温度差ができるのは当然の流れだった。
 わたしにとって故郷というのは、決して居心地いい場所ではなかった。世の中には

「実家に帰るとほっと落ち着く」

という人種が存在するらしいが、とんでもない。わたしはその逆である。実家から離れるほど、ほっとする。別にそれは原発の事故がなかったとしても、同じであった。
 一方、彼女は福島県内で教員をやっている今のご主人と結婚して、3人の子供に恵まれた。
 だけど今回の事故があって、遠く離れた場所では思っていた。いまごろ職場でも家庭でも、どれだけの不安に苛まれているだろう、と。
 すると突然、彼女から連絡を貰った。

「やまけーん(わたしの幼少期のあだ名である。某指定暴力団とは無関係である)、いまねえ、南湖(なんこ、と読む)に来ているの。何度かケータイに連絡貰ったみたいだけど、出なくてごめんねえ。やまけんはどこにいるの?」

「ああ、実家に帰ってきている」

「そうなんだあ。じゃあ、お団子買ってやまけん家に行こうかと思うんだけど、どうかなあ?」

 拍子抜けするほど朗らかな声だった。
 こうして実家で彼女と再会することになった。

「待ってね。ボルビックでコーヒー淹れる」

「あー、気ぃ使わなくていいよう」

「そうはいかんでしょ」

 わたしは福島に居るあいだ、エヴィアンかボルビックの水を利用していた。理由は、ヨーロッパのほうが、基準値が低いからだ。チェルノブイリで汚染された地域の水をあえて購入するなんて世も末である。余談になるが、東北新幹線のなかでトイレを使い、手を洗おうとしたら、
「この水は飲料水としてはご利用できません」
という貼り紙があって、微妙な気分になった。不衛生な水のほうが、何ベクレル入ってるか解ったものじゃない水よりマシというものである。この国に本当に「飲料水」として適切な水は、どれくらい残されているのだろう。
 しばし再会の雑談。彼女の口からはいっこうに、福島第一原発事故に関する話題は出てこない。
 しかたなく、こちらら振った。

「一番下のお子さん、いくつだっけ」

「小学校三年だよー。上の子は今度、高校受験なの」

「じゃあ、水とか不安でしょう?」
 すると彼女が不思議そうな顔をする。

「え? 別にうち、断水してないよ?」

「えっと、地震による断水じゃなくて。だからその、言いにくいけど、汚染されてるから、ペットボトルの水とか使わなくちゃいけなくて」
 するとなんの曇りもない笑顔で言われた。

「そんなの平気だよお、普通に、水道水をがぶがぶ飲ませてるよ

 思わず、

「やめろっ、下のお子さんだけでも飲ませるな!」

と叫んでいた。
 彼女が大笑いする。

「気にしすぎだよお、やまけーん」
 
しかしわたしは引けなかった。

「もしかして食事とかも産地を気にしないで食べてるの?」

 すると逆に自慢げに言われた。

「うん。今まで通り。家庭菜園のほうれん草も食べてるしね。今朝は近所の人からタケノコ貰ったから、帰ったら湯がいて食べる」 

 ついに、切れた。わたしが。

「ばかー! タケノコ、食うな。何日か前に、西郷村のタケノコがニュースになったでしょう。基準値超えだって」

 彼女の住まいは白河市だが、もし、ご近所の人がタケノコを採ってきたとしたら、それは西郷村なのである。わたしの土地勘からして、他に考えようがない。緩めに緩められた基準値さえ超えたタケノコを、彼女は食べる、そして家族に食べさせると言っている。

「もしかしてシイタケとか食べてないでしょうね?」

 わたしの記憶が正しければ、原木シイタケなどを食べないほうがよいとの呼びかけがどこかであったはずだ。 キノコには放射性物質を集める性質があるから、と聞いた。
 すると彼女はあっさりと言う。

「あ、シイタケなら今朝食べた。安かったから、子供たちに炒めて食べさせた」 

 呆然とする。
 彼女がわたしの顔を見て、なんだか「情報弱者」を哀れむような顔をする。

「気にしすぎだよお、やまけん。世界には日本よりも放射能の高い地域だってあるって言うじゃない」

 どこまでマスコミで報道された安全神話を鵜呑みにするのだろう。
 これはマスコミの罪なのか? それとも政府の罪なのか?
 わたしはもう、彼女の子供のことをこれ以上心配するのはよそうとあきらめた。 それよりも、肝心の学校給食である。

「給食のほうはどうなってるの?」

「ああ、いまはね、(地震の被害で)自校炊飯が出来なくなったから、業者に届けてもらってるけど。『太陽の国』から」

『太陽の国』とは、地元の大型老人介護施設である。

「食材とかの産地は?」
「わたし、学校給食の担当じゃないから、よく知らない。でも、父兄とかから問い合わせもなかったもの」

 それが、まずいと思うんだが。
 せめてこれぐらいには答えてもらおう。

「じゃあ、牛乳は?」

「今まで通り、××牛乳だよ」

 愕然とする。
 福島県郡山市に本社があるメーカーだ。
 いやまて、原乳の産地が変更になっている可能性は高い。
 落ち着け。
 この後、しばらく、

「タケノコ食うな」
「シイタケ食うな」
「家庭菜園のほうれん草食うな」

などと強い調子で忠告したのだけれども、

「ふーん? まあ、タケノコは湯がくのが面倒だなと思ってたから人にあげちゃうけど」

とだけ彼女は言って、なんだかあとは聞いているのか聞いていないのか解らない風情だ。 それよりむしろわたしの身辺雑記的などうでもいい話を聞きたがる。 どうでもいいじゃないか、そんなことと言いたくなる。
 政府が初動段階で行った「安全教育」というか「安全刷り込み」は、福島県民の大半については成功してしまっているのを彼女を通して知った。
 わたしは彼女を、ごく平均的な福島県民のひとつの指標として見てきたという過去がある。 受験先を福島大学にするか茨城大学にするかで悩み(隣の県とはいえ、県境を越えるということに、一大決心がいるらしい)、地元に残って教師となり、実家で子育てをする。典型的な在り方である。わたしなどには不可能だけれども。
 彼女と別れたあと、くだんのメーカーのサイトにアクセスした。
 ここで思い切りメーカー名などを晒してしまうと地域経済に絡む問題が生じる(ここが今回の震災と原発事故を考える上で、本当に困るところである)ので、トップページにあった文章だけ、ここに表しておく。


 福島県産原乳の出荷制限指示を受け、岩手県産原乳を使用して製造してまいりましたが、4月16日に福島県産原乳の安全性が確認され出荷制限が解除になりました。 
 当社ではその解除を受け、地域経済の活性化と福島県酪農産業の振興のためにも、新鮮でおいしいふくしまの牛乳をお届けいたしたく、4月26日製造より県産原乳を使用することになりました。 
 なお、福島県産原乳のモニタリングは、県が適正に実施し、安全性が確認された上で使用してまいります。 
 みなさまには、大変ご心配をおかけいたしましたが、震災に負けず、みなさまと力を合わせておいしい牛乳・乳製品をお届けするために全力で頑張ります。 
 今後もひきつづきご愛顧のほどよろしくお願い申し上げます。 


 これが福島第一原発事故に対する、県内の学校給食に使われている酪農会社の企業発表である。
 政府は、3月17日に、暫定基準値をWHOよりはるかに緩いものに定めている。
 わたしは別段、福島の酪農の足を引っ張りたいわけではない。ただの震災ならば、むしろ言った。福島県のものを積極的に購入してくれ、と。
 しかし、基準値をこれだけ緩められた上での「安全性の確認」って何だ? と言いたくなるのは抑えられない。
 大友克洋の「AKIRA」を思い出した。核爆弾により起きた第三次世界大戦、荒廃した旧・東京。東京湾上に建築された新都市・ネオ東京。SF漫画の金字塔といえるこの作品に登場する、超能力者、キヨコの台詞が鮮やかに蘇える。

 夢を…見たの。 
 街が壊れて…人がいっぱい死ぬわ。 

 わたしは自分個人の生命の長短よりも、そちらのほうが、恐怖だ。

時事音痴番外編/福島記3

「地産地消」。

 わたしの好きだった言葉のひとつだ。
 その土地で採れたものを、JAなどの団体を通さず、生産者が直接「道の駅」などで販売する。消費者は、安価だけど危険性の高い農薬が使用されている中国産野菜などを買い求めず、地元の野菜を買い求める。
 大変、理想的な流通スタイルであると考えていた。
 福島もそうだった。わたしの実家の近隣の主婦たちの休日の楽しみは、「周辺の道の駅めぐり」であるのが 多々だった。
 JAを通さない地産地消は、農家を潤し、同時に、土地に暮らす人たちにも中国産野菜を買うよりも安全な食を可能にしていた。
 しかしそれが福島第一原発事故以降どうなったか?
 ちょうど、母の車で「道の駅」を通りかかったので、母に尋ねてみた。

「最近、このあたりの『道の駅』ってどうなってるの?」

「さすがにね、出荷してもあんまり野菜を買う人もいないから。細々と仏さんにあげるお花だけ売ってる」

 ちょっと絶句した。そうか。花ならば、確かに人の口には入らない。
 さて、5月18日の「福島」を記す試みを始めよう。
 前回ご報告した通り、県が発表した
「環境放射能測定結果・検査結果関連情報」http://wwwcms.pref.fukushima.jp/pcp_portal/PortalServlet?DISPLAY_ID=DIRECT&NEXT_DISPLAY_ID=U000004&CONTENTS_ID=23853)によれば、いま、仮設住宅が急ピッチで建設されている中通りの線量は決して低いとはいえない。だが、県は、あくまで県内にこだわり、県内に被災者たちの仮設住宅を作った。
 わたしは、母や姉から情報を得て、中通りにある某所の仮設住宅の一角を訪ねてみることにした。ここには、福島第一原発の所在地である双葉町や大熊町から避難してきた人たちの仮設住宅もあるのだという。
 実は、わたしはこの取材、大変気乗りがしなかった。
 もともとインタビュー嫌いなのである。おまけに今回は、編集者がお膳立てしてくれたわけでもないし、アポもない。
 しかしどういう理由でか知らないのだけど、妙に母が、

「話を聞きにいってきたら」

と強く言う。もっともわたしだって無駄に福島に来て、

「実家で飯を食って帰りました」

という訳にはいかないので、重い腰をあげることにした。
 ナビに入れた運動公園のそばに、ごつごつとした砂利が敷かれている一区画があった。 地面を這うようにして、ホームセンターで売られている物置のような建物が並んでいる。ここだって線量は低くないというのに。
 仮設住宅の手前には、不用意に立ち入るなという意味合いを持たせているのか、樹木のあいだを結ぶ赤いロープ。
 これを見るだけで、プレッシャーを感じた。
 しかしここまで来たからには致し方ない。行くしかない。
 仮設住宅を歩いて、洗濯物が干してある家をアポなしでノックして回った。

「こんにちは」

 引き戸が開いて、中の住人から訝しそうな視線が送られる。

「お忙しいところ恐れ入ります。わたくしライターの山崎マキコと申しますが、少しお話を伺わせていただきたくて」

 すると即座に断られた。

「すいませんが、ちょっと」

 引き戸はすぐに閉められた。
 なんとなく、これは予想していたようにも思う。だから余分に気が重かった。
 方法を変えることにした。
 他県に行くと福島の人間は邪険にされるという噂が、県内ではもっぱらまことしやかに囁かれていた。事実かどうかはわからない。福島ナンバーで他県で外食をしようとしたら、入店を断られて食事券を貰ったと、妙に具体的な話なので、まったくそうでないとは言い切れない。要するに、よそ者に用心深くなっているのだ。
 別の仮設住宅の引き戸をノックする。出てきた住人に問いかける。

「あの、新白河駅近くの西郷村から来た者です。双葉か大熊から避難してきた方を探しているんですが」

「ああ、西郷ね。ちょっと待ってね」

 これでやっと門前払いはなくなった。
 まるっきりの嘘ではない。 確かにわたしは、今日「西郷村」からやってきたんだから。
 この仮設住宅のなかには、原発の所在地である双葉町や大熊町の住人だけではないのだ。県内に広範囲に地震や津波の被災地があるので、避難民が混在しているのである。
 しかし双葉町から避難してきたといってインタビューを申し出ると、

「うちは確かに双葉だけれど、あっちに大熊の人が」

などとたらいまわし状態になった。
 やがて気づいた。これはもう、立ち話レベルしか不可能であると。わたしがNHKなら別だろうが、わたしは単に「怪しいライター」に過ぎない。
 仮設住宅の外に出てきた老人がいた。
 あとで話を聞いたところ、八十代に入っているとのことだったが足腰が若い。老人はタバコに火をつけた。

「すいません、西郷村から来た者です。双葉、大熊から避難してきた人を探しているんですが、タバコをご一緒させて いだけませんか?」

 ようやく仮設住宅で朗らかな笑みを見た。

「おお、アンタ吸うのかい? 吸うよな。口元を見れば解る」

 たしかにわたしはヘビースモーカーだが、ホワイトニングが必要なほど歳月をかけて吸ってない。 なにせ喫煙デビューが三十路後半という阿呆である。本当はわたしの歯は黄歯症といって、幼い頃に抗生剤を大量投与された後遺症なんだが、まあ、ヤニ歯だと思われるのはいいということで。
 だからこれはオフィシャルな取材ではない。
 あくまで、仮設住宅の軒先で聞いた立ち話である。

「どちらから避難していらっしゃったんですか?」

「浪江町よ」

 近い。
 双葉郡だ。
 福島第一原発は、太平洋沿岸に位置して、東京寄りに大熊町、そして仙台よりに双葉町とまたがっていて、その仙台よりの隣町が浪江町である。

「ああ、浪江町ですか!」

「知ってるの、浪江」

「ええ、子供の頃に父に連れられて相馬に釣りに行くときによく通りました。今回は津波で被災されたんですか?」

 ここは、嘘ではない。事実である。

「津波と原発と両方よ」

「あれっ、浪江町って福島第一原発からの距離ってどれぐらいでしたっけ?」

「俺んところは6キロぐらいだなあ。仕事から帰ってきて昼飯食ってたんだよ、そこに11日の地震があってよう」

「お仕事は何を?」

「俺は漁師だから。メバル、アイナメ、ヒラメとか、その日も2万なんぼか水揚げがあって、よかったねえって母ちゃんが言ってて、メシ食ってたらグラグラッて。もう、床に這ってるしかなくてよ」

 マグニチュード9というのには、東電が賠償責任を逃れるために捏造された数字だという説もあるが、それなり激震ではあったのだろう。
 なにせ漁師の足腰である。揺れる船の上が彼らの職場だ。
 それと同時に、見た目に反して、妙に足腰が若い老人であるのに納得する。

「そのあとにすぐに津波警報よ。着の身着のまま近所の人が出してくれた車に飛び乗ってよ。逃げた。逃げ遅れた人は、半数ぐらいが俺の集落では死んだな」

「船は無事でしたか?」

「そんなの、山の上よ。浪江は100ぐらい漁船があったけど、ひとつも残ってねえだろうな。家はぶっ潰れるわ、船は山にあがるわで、その夜は浪江サンシャインでしょんぼりしてたんだわ」

 浪江サンシャインというのは、後で調べたところ、浪江町の役所の側にある「サンシャイン浪江」という体育館だった。原発からの距離は、およそ10Km。
「そしたら12日の3時だったな」
と、老人ははっきりと時刻まで告げた。
 現場を体験した人の記憶力の明瞭さに驚いた。わたしは実は、ここらへんの記憶があいまいなので、あとで確認をとって、時刻がほぼ正確なのに驚いたのだ。

「2回、爆発の音が響いたのよ。ドガーン、ドガーンって、2回。腹の底に響くような音がした」

 現場の証人に出会って、ため息をつきながら認めた。
 2回。1回ではなく、2回だ。大きく意味が異なる。
 それにしても激しい爆発だ。10キロ先まで響くとは。

「それから1時間後だったな。役所がバスを出して逃げることになった。でも六号線はあちこち寸断されててガタガタだしよ、道は車で溢れていて全然動かないわでよ」
 6号線というのは、仙台方面から福島県の浜通りを経由して首都圏へと至る幹線道路である。浜通りの大動脈だ。そこが避難民で溢れた、ということか。

 このあと、確かわたしの記憶だと、老人を乗せた行政のバスは田村郡の避難所に移動したと聞いたように思う。ICレコーダーもなく、メモもここは老人と別れた直後にとらなかったので、あくまで記憶頼りであやふやだが。

「避難所の生活は酷かったな。3回、小さなお握りが出るだけで。1週間風呂に入れなくて。女も臭う」

 なんだかリアリティがありすぎる話だ。

「しょうがなくて親戚のところに頼ってよ。でも親戚のところなんて、1週間もいれば十分よ」

 居心地が悪くなる、という意味だろう。
 老人は、いろんな親戚の家を点々として、結局また避難所に戻ってきて、ようやく仮設住宅に入居したところだという。
 開いた引き戸から、一瞬、家のなかが伺えた。
 洗濯機や冷蔵庫がある。これは国なのか県なのか解らないが、支給されたものだという。

「家電製品? ああ、買ったんじゃない。五点セット(あくまで聞いた話である。老人は“五点”と言っていた)が支給されたのよ。洗濯機、冷蔵庫、電気ポット、あとなんだったかな? 忘れちまった」

 冷暖房がついていたから、五点セットのひとつはこれではないかと思われる。また、米を背負って仮設住宅に入っていた人を見かけたから、炊飯器も含まれるだろう。
 それにしても老人の年齢が気になった。この年齢なら持病があっても不思議じゃない。

「保険証とかは持ち出せたんですか」

「そんなもん、持ち出してる暇はないよ。そんなことしてる人は、みんな死んでる。身一つで逃げた人間だけが生き残った」

「お薬とかに困りませんか?」

「ああ、医者が無料で診てくれるんだわ。夜になると原発の音を思い出して眠れなくてよお。そしたら安定剤ってのを出してくれた」
 これは完全に個人的な興味から尋ねた。

「なんていうお薬を貰っていらっしゃるんです」
「銀色の包みに包まった、ハル、ハル……なんだっけ」


 ピンと来た。


「ハルシオンですね?」

「それだ!」

 愕然とした。
 原発の危機的状況を知りながら逃がさず、その代わりに眠れないような体験をさせて、ハルシオンを処方するということ。そしてそれを「安定剤」と称してしまうことに。
 このあたりで老人は喋りすぎたことに不安になったらしく、

「身分証を見せてくれ」

と言い出した。
 わたしは保険証、運転免許証、果てはタスポまで晒した。

「現住所が違ってますけど、故郷は福島の西郷ですから!」

「だよなあ。相馬と浪江知ってるんなら福島だよな。いやな、愛知県警とか徳島県警とかが、仮設住宅のなかを1日4回ぐらいぐるぐる廻って。怪しい人とは話をするなって言うからよ」

 なんのための見張りなのだろう。
 確かに不穏な空気は充満しているが、それならば浜通りのほうがよほど荒れていた。仮設住宅にそこまで力を注ぐ狙いが本気で理解できない。

「すいません、長話をしましたね。それではわたし、失礼します」
といってその場を離れた。

 なんだか報道で流れない場の空気と向き合う必然性を感じて、遠くで離れて物を言ってるだけじゃ駄目だと思って、一種悲壮な決意までして福島にやってきた。

 しかしここにきて思うのは、

「すべてはもう、終わったあとなのだ」

ということである。確かに原発は予断を許さない状況だ。
 だけど動かせる現状はなにもない。そんな気がしてならない。
 県民のこれ以上の避難拡大は、おそらくはない。現状維持だ。
 逃げられる人間は、初動で逃げた。
 逃げ遅れた人たちは、静かに、内側から、外側から、蝕まれていく。
 それだけが事実だという気がしてならない。