2013年9月11日水曜日

時事音痴/福島記10

 5月31日の「福島」を記す試みです。

 わたしはその前日の5月30日の月曜日に、どうしても胸にもやもやとしたものが残るのを感じていた。特攻隊員になろうとしたのに、「不時着」してしまったような、居心地の悪さである。友達は言った。

「お国のために、ご苦労様です!」

 どうしてこうも気がとがめるのだろう。そもそもボランティアなどする目的もなく、福島にやってきたはずなのに。おかしい。何故?
 5月30日は、必死に、県のサイトを見てまわっていた。どこかに「ボランティア」のニーズはないのかと。
 するとやがて情報がヒット。

「なにも土日でなくても、ボランティア活動は行える」 

というのが判明した。 

 この時期まだ、県のトップページは涙が出るほど簡素で、それでいて、そこから必要な情報を得るまでに階層を掘って行くのは難しかった。 

 わたしは今回の災害、及び、事故による被害を正しく把握するためには、どうしても「相馬市」というのは欠かせない地点になるのではないかと考えていた。 

 というのも、相馬市は、「松川浦」という、干潟を抱えている土地なのである。そして福島第一原発からは至近距離。つまり、県内で津波の被害を最も受けやすく、そして、原発事故による影響も受けやすい土地柄であるだろうと睨んでいた。この連載をお読みの方もお忘れかとは思うが、だからわたしは5月22日には、実家が経営する会社の常務に頼んで「相馬市」と行き先を指定したわけだが、浜通りを仙台方向に北上する六号線をルートとして常務が選んだら、20km圏内立ち入り遮断の壁にぶち当たったという次第だ。

 しかし調べていたら解ったのである。相馬市が、商工会議所を借りて、仮設のボランティアセンターを用意している。寝泊りはできないようだが、行けば、なんらかの仕事はあるようである。
 行ってみるしかない。心に決めた

 車は母が通勤用に使っているものだ。取材費があればレンタカーを借りてもっと早朝に飛び出したかったのだが、ここは耐えるしかない。朝、七時半。母が会社に出社した足で、車を借りて、相馬市へと飛び出した。 

 東北道を仙台方面に向かって北上する。 

 南から順に、白河市、須賀川市、郡山市、そして福島市。中通りを走る東北道は、北に行くほど線量が高い。 

 3.11直後は仙台へと向かう自衛隊車両で一杯になったと聞く東北道だが、応急処置的な復旧工事を終え、 80km規制で通行できる。しかし、路面はガタガタだ。 

 わたしは今回の震災であちこちの高速道路を走り回るはめになったのだが(事情はいずれ話す)、かつての東北道というのは日本一のインフラだったように思える。首都高を抜けて東北道に入ると、いつもほっとした。まっすぐな三車線が、ひたすら続いている。めいっぱいアクセルを踏んでいても、直線すぎて、眠くなる。だがその素晴らしいインフラは、震災であっけなく、破壊されている。



 初心者マークも、いたずらされて、後ろだけ無くなってしまった。こんなことをされるのは初めてだった。これ、交通違反だ。どこか警察署があったら立ち寄って初心者マークを求めないといけない。 

 わたしは編集者に「福島生まれですから、福島県の土地勘があります」と豪語してしまったけれど、故郷を離れて20年経つ人間の「土地勘」なんて、非常にあやふやなものになっているのに、途中で気づかされた。カーナビの、相馬市に到着する予定時刻が、どんなにボコボコの道を飛ばそうが「昼の12時」からほとんど動かない。 
 これではほとんどボランティアする時間が取れない。 


 そう、途中で気づいたのだ。「あぶくま道」という、浜通りに出る高速道路ができるまでは、中通りと浜通りのあいだは山脈を越える峠道しかなく、非常に行き来も不便であったと。
 途中、中通りを抜ける東北道を降りるようにとの指示があり、福島市内にカーナビの誘導で送り込まれた。これから山脈を越えて浜通りへ向かう。

 するとうっかり道を一本外した。そのおかげで警察署を発見して初心者マークを買い求められたのはいいとしても、次に、カーナビに宮城まで誘導されてしまったのに気づいた。しかし、もう、どうしようもない。県境を越えるしかない。
 途中、阿武隈川沿いの峠道に入った。交通量が極端に減る。ここから先に行けるのかどうか、心細さでいっぱいになる。福島県内の中通りから浜通りに至るまでの道路で、御斉所峠は、山が滑落しているという話だった。道も復旧していないと。 

 他の道はどうだ? 行けるのか? 
 曲がりくねった山道を、飛ばせずに、遅々として進む。 
 踏めない、怖くて、アクセルを。 
 ときどき道が細くなり、一方通行になる。 
 ごくたまに、福島方面に抜けていく車。

だが、いくら先に進もうが、どれだけのろのろと進もうが、前方にも、バックミラーにも、車の影がない。 

 浜通りが原発誘致に狙いを定められるほどの僻地だったのを、走りながら思い知らされる。東北新幹線と東北道が走る中通りと山脈ひとつ隔てて、まるで隔離されているかのようだ。そう、あそこはかつては塩田しかなかった土地。そしてささやかな漁業。貧しい土地だったのだと。
 途中、宮城の県境を越えた。「頑張ろう、宮城」の旗と共に、「道の駅」が営業中なのを知って思わず立ち寄る。 

 宮城に入ったとたん、「道の駅」は、賑やかになった。 
 ちなみに「丸森町」というところであった。 
 わたしが「相馬市」に行くと言い出してから心配していた母親にケータイで連絡を入れた。 

「いま、うっかり宮城まできちゃった」 

 すると母が声を弾ませる。 

「宮城? 野菜を買ってきて」 

 とっさに福島県の地図で、現在地を確認した。 

「駄目だ! ここ、飯舘村の、県境をはさんだ隣町と言ってもいい!」 

 とたんに、母が落胆したような声を聞かせる。 

「そうなの?」 

「宮城県は、県庁の地上80mから環境放射能を測定してるんだ。 駄目、こんなところのもの、食べさせられない」 

 しかしイメージ戦略というのは恐ろしいものだ。だれもが「福島県」のものを恐れても、「宮城県」ならば、とたんに安全と思い込んでいる(現在はセシウムで汚染された家畜のせいで、そうでもなくなってきているようだが)。福島県内の道の駅は、「仏花」ぐらいしか、取り扱いがなくなっているというのに。 


 放射性物質が、 

「ここが宮城県と福島県の県境ですか? ではここで進行をやめます」 


と、越境を思いとどまってくれるなんてはずはないのに。 

 しかし宮城県は、まるで無関係なごとく、たけのこなどを販売している。 
 福島県内では検査の結果、たけのこの販売は規制されたのに。 
 三号機の爆発の日、どう風が吹いたのか。 
 浜通りの線量は低い。すると、結論はおのずと導かれる。内陸に向かって、吹いた。飯舘村を抜けて、山脈を越え、福島市にぶち当たり、そこからどこまで宮城よりに吹いたかまでは解らないが、やがて中通りを南下した。 

 たぶん、これが結論だ。 

 ならば宮城も危ないはずなのである。 だが宮城に入った途端、規制はなく、通常通りに近所の客たちで賑わっている。 
 国は、緩やかに福島の経済を滅亡させ、宮城の経済を維持することを選択した。そんな気がした。
 確かにわたしは今の地域経済を守るよりもこれからの世代の先々を考える。

 だが悔しいのだ。なにかが、悔しすぎるのだ。なぜ福島ばかり、という思いは募る。
 ネットの一部の論調では、福島がまるで「原発利権」を独占したから、ばちが当たっているかのような物言いである。
だが言ってやりたい。宮城にだって女川原発がある。
 だが、慎重な土壌調査の結果、津波の影響を受けにくい立地にしたから、今回の難を逃れているのである。


ずさんな調査、

ずさんな津波対策、

ずさんな管理。


原発ができるという話を聞かされた、わたしが生まれる以前の福島県民の浜通りの人たちは、国がそんな施設を認可すると考えていただろうか。

 れに本当に「利権」なるものが存在するのなら、なにも首都が独占すればよかっただけの話ではないのか? 中央集権的に、東京だけをいびつに発達させたこの国なのだから。「東京にも原発を!」と誘致すればよかったのだ。かつて13号地と呼ばれたお台場でも、若洲のゴルフ場でも、新木場公園でもいい。いくらでも立地には困るまい。そしてさらに東京を豊かにすればよかったではないか。それから未だに原発が好きな人たちに言ってやりたい。


そんなに原発が好きなら、自分の地元に誘致しろ!



 しかしとにかく、走る。相馬を目指して、走る。不安に耐えながら、走る。 
 峠道を越えていく。 
 右には一昨日と、昨日の雨で、濁流となった阿武隈川。 
 先を走る車の影を見たい。
 しかし、一向に見えない。 
 やがて、阿武隈と分かれて、いよいよ相馬へと近づいてきたその時だった。相馬へと向かう自衛隊車両を発見した。 

 嬉かった。心から、嬉しかった。頼もしかった。 

 ずっと後ろについていった。 

 やがて「うつくしま、ふくしま」の看板。いまとなっては空しいキャッチフレーズ。宮城と福島の県境を示している。

 自衛隊車両は、がらんとした道を、走っていく。 
 しかしそれでも後を追って行くと、道端に人影を見つけた。 
 あ! 人だ。 まだ、人がいる。ここにも。
 こんなことが嬉しかった。 
 しかしそれは、虚ろな目をした老人で、道端に座り込み、看板をかざしている。 

「死後、裁きにあう」 

 なぜこんなところで、そんな看板を掲げているのかと責めたい気持ちすらした。虚無に飲まれそうになる。無駄、無駄、無駄。全部が、無駄。そう、薄々わかっている。全部が、無駄。
 しかし、とにかく走る。自分の感情を封鎖して、走る。
 だが長時間の運転で疲れてきていた。
 ナビの行き先はまさに自衛隊車両の背後を追っているし、そのままついていこうと思ったのだが、途中、コンビニが営業中なのに気づき、つい、休みが取りたいのと、人の気配を感じたくて立ち寄ってしまった。物資があることと、ここでも働いている人がいるのを確認したかったのだ。店のなかには普通に物資があって、無表情な店員が会計してくれた。ブラック、無糖のコーヒーを買って戻ると、もちろんのこと、自衛隊車両はどこに行ったのか解らなくなっていた。またひとりだ、という思いが募る。

 ひとりぼっちで戦っている気がしてならない。
 だけどなにと?
 解らない。

 やがて市内に入った。相馬市内は、昔の佇まいをそのまま残していた。 
 城下町ならではの、クランクの多い道。
 そこに古くからある商店街がある。 
 この町がいかに大規模開発から取り残されていたかが解る。もっとも、おかげで地域経済は、大型店舗の進出などがあまりなく、保たれていたともいえるのだが。 
 市内に入ると、交通量がありふれた雰囲気になった。 
 人がいる、というだけで、なんだかほっとする。 

 途中、体育館のような場所が、避難所になっているのを見かけた。生活臭が漂っていて、申し訳なくて直視できない。 

 それから、あまり書きたくないことなのだが記しておくと、「マグナム」という、北関東から東北南部あたりでよく見かけるパチンコ屋の系列店(全国展開かもしれないが、他の地域を確認したことがないから不明)の駐車場だけは、車が溢れるばかりに停められている。ギャンブル依存症者というのはこれだから、と若干苦々しく思う。

 地震の直後の栃木県小山市でも、「マグナム」の駐車場だけは混雑していた。これが被災地のイメージを悪くする。一部の人間がしていることなのに、まるで全員が避難所からパチンコに通っているかのように語られる。 

 やがて目的地付近に到着した。11時40分。結局、片道だけで160kmは走ったように思う。最低でも。高速だけならもっと短時間で到着できたであろう距離でも、一般道で、しかも峠道というのが、痛い。 

 ナビが示した先には、いかにも急場に設置されたとおぼしきボランティアセンターが見えてくる。 
 ホームページに記載されていたボランティア道具一式、防塵ゴーグル、防塵マスク、ゴム手、そして角型スコップ(こんな妙なスコップが、どういう場面で役立つのか、よく理解していなかった)を持参して、ボランティアセンターへの階段を上がる。 
 足元は安全靴。一応、完全装備、だと思う。 

「すいません、とくに事前予約とかないんですが、ボランティアで可能なことがあればお手伝いしたいと思い、参りました」 

 すると即座に市の職員とおぼしき人が応対してくれた。ちなみに職員の人の服装は、全員が作業着。そして、オレンジ色のメッシュの多機能ベスト。だれもスーツなんて着ていない。嫌でも緊張してくる。紛争地帯の取材にでも来たようだ。
 口頭で尋ねられた。

「現地へと向かう交通手段はありますか?」 

「はい。自家用車で参りました」 

「それではハウス内の泥の除去作業をお願いします。書類に書き込んでいただいて、現地へと向かってください」 

 書面には、名前、住所、連絡先、ボランティア保険に加入したいかどうか、そして「ボランティア証明書」なるものの発行が必要かどうかを記す必要があった。 
 ボランティア保険は速攻で丸をした。 
 自分の怪我のこととかはさておいて、他人様の壷とかを壊して弁償するという、実に短期的な側面においての影響が怖い。わたしはそんなに豊かではない。
 そして「ボランティア証明書」の申請。まともに勤めたことがあるのは学生のときの編集プロダクションの契約社員だけ、あとは短期のアルバイトぐらいという社会経験のわたしには、最初、これの必然性の有無がよく理解できずにいた。 あとで「あほですか?」と友人から指摘されたのだが、これは会社勤めの人が、「ボランティアに参加するために」ということで 休暇をとったときに必要なものだった。

 わたしはてっきり、

「ん? この証明書があると、他のボランティアを必要にする地域でもボランティア活動が可能になるとかの、実力証明書みたいなもんか?」 

と、訳の解らない想像をして、丸をつけた。 
 あとで事実を知ってから恥ずかしくなった。
 県のサイトでは「飲み物持参、マスク持参」とあったが職員の人が在庫のマスクを薦めてくれた。 

「これ、かなりの性能のマスクなんです」 

 気密性が高い。しかしこれからの活動時間の短さを思うと申し訳なくて遠慮したのだが、強く勧められる。

「いえ、是非、ご使用ください」 

 なんだか非常に申し訳ない気になりながらも、ひとつ頂戴した。それから「お~い お茶」のペットボトルを貰った。本当に申し訳ない。
 とにかく、行政はここまで対応してくれていたということだけは記しておきたい。
 職員の人が言う。 

「現地にはお手洗いとかないので、こちらで利用していってください」 

 この一言で、本当に現地に向かうんだなあという実感が増した。商工会議所のトイレを借りると、

「断水中につき、水を流すときはバケツから柄杓で水をすくってお使いください」

の貼り紙があって、焦った。 
 え、相馬市内も、まだ断水してるのか?
 しかし、その肝心のバケツもなければ柄杓もないのである。
 試しにトイレの水を流してみたら普通に流れるので、災害直後の貼り紙がそのままになって誰も気づいていないのを知った。現場は、これに気づかないほど混乱しているのを察した。
 トイレから出ると、今日のボランティアの作業場だという住所と電話番号、そして地図をコピーしたものを手渡された。 
 地図で場所を見ると、案の定、現地は、松川浦の近所だ。 

「よろしくお願いします!」

と送り出される。 
 いよいよ、相馬市郊外へ。海が、近くなる。 
 細い道に入り、住宅街を抜けた。 
 すると突然に開けた視界。 
 平地に、松の大木が延々と散乱していて、海まで続いている。遠くに水平線が見える。
 ここは海から2.5kmから3km地点のはずなのに。 


 素人目にも解る。

松川浦の美しい海岸沿いに生えていた松が、津波とともに凶器となって、このあたり一帯を襲った。

折り重なる松とヘドロが続く大地。 


 一瞬、恐怖と絶望でどうしていいか解らなくなった。

これを、どうやって復興させるというのだ。

 そのなかで、五十代ぐらいの女性がひとり、ヘドロで汚れた家電製品を動かしている。 なんの目的があって動かしているのかは、不明だ。 

 ナビの目標地点だと、このあたりのはずなのだが、ボランティアの影が見えない。 
 しかし、車を農道に寄せて停車するのが怖い。 
 農道がヘドロに埋まってて、車体ごと沈みそうだからだ。被災地に来て、JAFを呼んでいたらあまりにも間抜けである。
 少し乾いているあたりになんとか停車して、車から降りる。そしてヘドロで汚れた家電製品を動かしている女性に思い切って声をかけた。

「お忙しいところ恐れ入ります、ボランティアセンターから参りました。××さんのお住まいはこちらでしょうか」 

 個人宅のハウス内のヘドロの除去作業。これが今日の作業だとボランティアセンターで聞いてきた。
 すると女性がいぶかしむ。

「××さん? だれだべ、それは」 

 地図を見せた。 

「この方のお宅にお伺いするようにとの指示だったのですが」 

「八龍なら、こっからまだ先だな。ここが新田だから」 

 地名というのは、昔の知恵が現れているように思う。 
 新田、新しく開発された田。塩田だったのだと思う。 
 津波でまるごと、飲まれている。 今回の取材を続けているうちに、過去に「貞観地震」というのがあったのを知った。これはこのボランティア「めいたもの」に行く前々日の、福島県白河市で行われた佐藤栄佐久前福島県知事の講演で仕入れた知識である。いでよ、ウィキペディア! ということで、情報を抜粋して貼る。以下、ウィキペディアより。

 貞観地震(じょうがんじしん)は、平安時代前期の日本で起こった巨大地震である。貞観11年5月26日(ユリウス暦869年7月9日[2]、 グレゴリオ暦換算7月13日)に陸奥国東方の海底を震源として発生した。地震の規模は少なくともマグニチュード8.3以上であったと推定されている。(略)
 古い時代の東北日本の地震災害においては珍しく、詳細な文献記録が残っている(後述)。史料には甚大な津波被害の発生が記述されており、三陸地震の1つとして理解され、貞観三陸地震と呼称されることがある。津波堆積物等の詳細な研究結果による想定震源域は、宮城県沖から福島県沖とされている。更に、宮城県沖・福島県沖に加えて、三陸沖も震源域となった巨大地震であったとする説もある。(略)


 仙台平野で津波が仙台湾の海岸線から3km侵入したことは、既に1990年に東北電力が女川原子力発電所建設のために調査して発表されていた。



 抜粋、以上。この最後のセンテンスに非常に怒りを憶える。女川は、きちんとボーリングして調査した。だが福島は? きちんと調査したのか。その上で立地したのか?
 しかしその悔しさを思い出している場合ではない。
 いまは、とにかくボランティアに向かわなければ。
 けれど八龍という地名、つまりボランティアに向かう先は過去にも、津波の被害を受けたことがあるのではないか? 龍という字は、しばしば、水害に襲われた地域に残る。
 道を教えてくれた女性に礼を述べて、再びハンドルを握る。









 このあたりからいよいよ、道が不安になった。 

 なんとか交通可能にしてはあるものの、何が落ちているか、よく解らない道の汚れ方なのである。

パンクしないか、いつJAFを呼ぶことになるのかと冷や冷やしながら車を進めた。震災から2カ月半が過ぎようとしているのに、ボランティアに行くことすら危険な道。

どれだけ「福島」が見捨てられているのかを如実に感じる。地元の人間が「どうして福島ばかりが」という気持ちも解るというものだ。
原発の20km圏内ということで六号線が封鎖されていなければ、ここにだって多数のボランティアはやってきただろう。

 恐る恐る車を進めていると、ようやく、3台の車が停車してある農道を発見した。 
 1台はあきらかに、行政のバンだ。 
 3台停車してある車の手前にバックで停車。角型スコップを手にして、車から降りる。 現地ではリーダーの指示に従うように、とのことだった。 
 間抜けなことに、移動だけで時間をとられて、すでに昼休みの最中。 
 車のなかで昼食をとっている六十代ぐらいの男性ふたりに声をかける。

「失礼します、ボランティアセンターより参りました。足手まといかとは思いますが、よろしくお願いします」 

 すると男性はにこやかに微笑んで、 

「こちらこそよろしく。リーダーはハウスのなかにいると思いますよ、いまみんな、休憩中だから」 
と教えてくれた。 

 作業着を着た4人ぐらいの男性の集団が目に入ったので、彼らがリーダーなのかなと考え、挨拶に伺う。 再び似たような挨拶を繰り返す。

「お休みのところ失礼します。ボランティアセンターより参りました。足手まといかとは思いますが、よろしくお願いします」

「お疲れ様です。僕ら、小田原市の職員です」

 小田原市? どうして。
 よくよく彼らを見た。
 若い人で三十代ぐらいがひとり、それからわたしと同じ四十代ぐらいがふたり、そして眼差しが優しい初老の男性がいた。 

「皆さん、全員、小田原市からわざわざ?」 

「ええ。小田原市は相馬市とつながりがあって、5日交代で派遣されているんですよ。だから僕らも昨日、現地に来たばかりで。ボランティア新米です。リーダーはあちらにいます」 

 若い男の子3人と、女の子ひとりが、ハウスのなかで談笑していた。 
 挨拶に伺う。 

「はじめまして。ボランティアセンターより参りました。足手まといかとは思いますが、よろしくお願いします」 

「あーはい。いま、昼休み中ですから、1時から作業お願いします」 
 リーダーとおぼしき男の子は、どう見ても二十代前半だった。 

「みなさん、どちらからいらっしゃったんですか?」 

「全員、相馬」 

 地元の子たちだった。 

「ずっとボランティアを?」 

「そうっスね」 

 つい、尋ねた。 

「あの、お仕事のほうは?」 

「原発で駄目になりましたから」 

 20km圏内に勤め先があったということか。 
 しまった、突っ込むんじゃなかった。 

「そうでしたか。お休みのところ失礼しました。では、1時から」 

 楽しそうにやってるところを邪魔してしまった。 
 わたしがその場を離れると、また若い笑い声が響いた。 
 年代が近いこともあって、小田原市の職員の人たちと会話する。ひとりが、ガイガーカウンターを持っていた。 大きさとしては名刺入れぐらいなのだが、わたしが楽天で購入したものよりは、ずっと性能が高そうだ。デジタルで数値が現れる。 (わたしのは、20ms/hの放射線をいちどきに受けるとようやくカードの色が変わるという、全然使い道のないものだった。英語の説明書きを読んだら、「核戦争のときに、このカードの色が変わったら、ただちにその場を離れろ」みたいなことが書いてあった。なんて無意味な)

 四十代ぐらいの穏やかそうな小田原市の職員の人に尋ねる。

「それ、ガイガーカウンターですよね?」 

「そうです。国から借りたもんなんですけど、使い方が解らなくて」 

 その男性が地面にガイガーカウンターをかざす。全員で覗き込む。 

「うーん、全然数値が変わらない。おかしいなあ? 一応、4μS/hになったら、アラームが鳴るように設定はしたんですけどね」 

 なんとなくこれは、使い方が間違っているというよりは、ガイガーカウンターの性能のせいだろうと思えた。4μS/hという数値は、30km圏内に行くか(29km西北西の浪江町で、7~9μS/hである)、あるいは飯舘村あたりに行かないと叩き出せない。 
 福島第一原発から、相馬市は北北西におよそ約42km。 
 県の公表では、0.3μS/h前後。県はこの数値を地表から1mで測っているという話だったから、 地表だともっと高くなると思われるが、福島第一原発と並ぶ沿岸部ということで恐れられる相馬市は、連続して爆発のあった日にけっこう難を逃れていた地点なのだろう。

 その後、小田原市の人たちと雑談。 

「どちらからいらっしゃったんですか?」

と尋ねられる。 

「今日は実家の新白河より参りましたが、現住所は別です」

「小田原って解ります?」 

 当然である。胸を張って答える。というか、東日本の人間と出会えて嬉しい。

「ええ、わたし、小田急線の住人でしたから。当然ですよ、いいところですよね!」

 すると騒がれた。

「えーっ、小田急線のどこですか?」 

 雑談の内容なんてどうでもよいだろうと思われるだろうが、この先、重要な会話につながるので記しておく。

「生田です。あとは下北沢、登戸、相武台まで転々と。好きですよ、小田急線。小田原ではよく、釣りに行くときに駅弁買ってました」 

「鯵の押し寿司?」 

「それです。また行きたいなあ、小田原」 

「いらしてくださいよ。とくに、箱根に」 
 このとき初めて知ったのだが、箱根も小田原市の管轄なのであるらしい。

「箱根も好きですよ! もちろん。大好き」 

「ヤバいんです。震災以降、旅館もホテルも泊り客がいないらしくて」 

 著名なホテルや老舗の旅館の名前が挙がった。
 愕然とした。

「一休.comで名前を見かけるところばっかりじゃないですか!」 

「そうです、だいたいトップページを飾るようなところが、軒並み」 
「それにお名前が挙がったところのひとつには、わたし、泊まったことありますよ。どうして、箱根まで……」 

「震災の影響としか、言えないんです。あるいは原発事故。そろそろ軒並み、その……」

 後に続く言葉を、察した。
 日本全体の景気が、どれだけ冷え込んだかを思い知らされる気分だった。 
 これをさかのぼること1カ月ほど前、友人がたまたまホテルオークラ近辺を歩いていたら、単独で歩いている温家宝とすれ違ったらしい。「震災後の日本」をこの眼にしたかったのだろうというのが友人の見解。わたしも同意である。これからの日本について震災以前にわたしが考えていたのは、対中国への輸出産業での立国である。春節の日に銀座が中国からの観光客で溢れ、ファンケルのアンテナショップで日本製品を奪い合う中国人観光客を見ていて、

「あ、日本は食やその他の製品での安全性を売りにできる」

と思ったのだ。中国人観光客は温家宝が行くなら安全、ということで若干日本に戻ってきたようだが、わたしが思い描いていたような「日本製品の安全性を売りにしたビジネス」というのは、事実上、不可能になったと思い知る。
 これが地震だけだったら、絶対に違った展開になっていたと、幾度も繰り返し思う。
 気分が暗くなり、遠くに目をやった。すると気づいた。 
 地平線のむこうに、かすかに波頭が見える。 
 
この海が怖い。ここで地震が来たら、確実に、海が襲いかかってくる。 

 恐怖を紛らわせるために喋る。

「それにしても凄まじいですね、一面、松の木ばかりだ。ため息が出ます。ここ、田んぼですよね、地図から読むと」 

 年輩の小田原市の職員の男性が応じた。 

「うん、全部、畑か、田んぼだった。でも見てみな、ほら、あの家の軒先、船が転覆したまんまだ」 

 おそらくはわたしの立っているところから300mほど先の一軒家なのだが、 視界を遮るものがないからよく見えた。確かに、船が転覆している。 
 震災から2カ月半。
 なのに、なにもかもが、手付かずに放置されているように見える。ヘドロに折り重なる茶色く枯れた松の木だけが、時間の経過を示している。 
 この広大な土地を埋め尽くした松の木を、どこに、どう持って行き、処分すればいいのか。 
 もし、単なる津波の被害であったら、まだ話は簡単だったように思う。乾いた時点で、片っ端から燃やす。重油でもぶっかけて。 
 そしてヘドロは重機で取り除く。 
 しかしそこに原発事故である。ヘドロの捨て場がない。放射性物質を含んだヘドロを、どこに移動させても大問題である。
 わたしはここに何をしにきたのだろう? 自分のなかで答えが出ない・
 そうこうしているうちに作業開始時間を迎えた。ハウスのなかのヘドロの撤去作業である。人海戦術だ。 
 年輩の男性が尋ねられた。 

「どうする? ネコやりたい? それともスコップ?」 

 ネコというのは一輪車のことである。 

「ネコは……酪農家のお宅で住み込みで働いていたときに牛舎で牛の糞を出すので泣いたんですよね」 

「そりゃいい。なら、ネコだ」 

 いや、だからあれはキツいって。 
 後で現場仕事をしていた友人からも言われた。

「普通、女の人にネコやらせますかねえ? あれ、体力がなくてコツが解らないとただの拷問ですよ?」。

たぶん、小田原市の職員の人は、現場を知らなかったのだと思う。
 ここに至って知った。純粋なボランティアは、湘南からやってきた還暦ぐらいの男性ふたりと、地元の男女4人、そしてわたしだけであると。あとの4人は、小田原市からの職員だ。 
 ちなみに女性はというと、わたしが来るまでは、地元の若い女の子だけであった。
 実際の作業が始まって。 
 板を渡して足場が作られ、シャベルですくわれたヘドロが、どさどさとネコ車に投棄される。
 まずい、と思う。 

「すいません、これで行かせてもらいます!」 

 ネコ車は、わたしと、地元の女の子と、それから年輩の男性3人に任されていたのだが、わたしは自分の体力がないのをとことん知ってる。 他人の判断を仰いでいたら、絶対に、ネコ車ごとヘドロのなかに横転する。 
 ヘドロはどうするのかというと、ネコ車でハウスの外まで運んで、松の木が折り重なったヘドロのあたりに積み重ねていくだけ、である。
 他に処置の方法がないようだ。 
 案の定、何往復もしないうちに、息が切れてきた。 
 気密性の高いマスクが苦しい。 
 そんなとき、小田原市の職員の人の足が、どちらもヘドロに沈んでしまい、騒ぎになる。

「抜けない!」 

 焦る小田原市の職員の人。 
 現場の知恵だなあと思ったのは、このとき、地元の男の子が、ごく冷静に、 

「長靴だけそのままにして、足を引き抜いてください」 

と指示したことだ。そして、小田原市の職員の人がその通りに片足だけ足を引き抜くと、長靴を救出。比較的足場のよい場所に片足を置かせ、今度は逆の足に同じ処置を施す。 
 これでめでたく救助されたのだが、わたしを含めて小田原市の行政の人たちは、全員で焦って、その人の腕を引っ張ってなんとかしようと奮闘していた。あれでは話にならなかった。
 やがてなんとか50分の作業を終えて、休憩。 
 ヘドロを掻いたときに粉塵が舞い上がるからということで着用していたほうがいいよと言われていたマスクを外す。 

 肩で息をしながら、つい、つぶやいていた。 

「酸素がうまいです! 全然タバコが吸いたくない」 

 すると小田原市の職員の年輩の人が言った。 

「やめればいいのよ、タバコも原発も。原発なんて、悪魔の火だよ。人類を滅ぼす」 

 なんだかその場がしんとなった。 

 みんな感じている。いま、わたしたちは無駄なあがきをしていると。 

 ここで小田原市の行政の人のひとりが、励ますようにわたしに声をかけた。 

「ここに飲み物とかありますよ? どうですか」 

「あ、はい。いただきます」 

 現地にはトイレがないということで水分の補給を控えてきたのだが、汗が流れて、水分は欲しかった。わたしはなにげなくペットボトルを手にとってしまったのだが、現地の子とかは手をつけなかった。ここで気づけばよかった。 
 後に気づいた。これは、被災者の、せめてものお礼の飲み物だったのだ。 
 行政が用意してくれたのだと思い、飲んでしまった。 
 そのときだった。家のなかから、被災者のご夫婦が現れた。六十代後半ぐらいだろうか。なまりの強い言葉でしゃべる。 少しおどおどしながら、だけどわたしたちに笑いかける。

「これ、よがったらもっでっで(よかったら持っていって)。カブトムシの幼虫。ほら、立派だがら」 

 ヘドロを撤去しても、このハウスのなかはおそらくあと何年も、塩害に苦しむ。 
 それは作業に取りかかる前から感じていたこと。 
 なのにこの人たちは、また土作りをしようとして。 
 わたしは唐突に気づいた。 

 自分がずっと怒っていたのは、悲しかったからだと。 

 一生懸命、カブトムシの幼虫を差し出す、素朴な顔立ちの農夫の男性。

「ほら、立派だがら」 

 津波に襲われて家も一階部分はおそらく水に浸かり、なにもなくて、せめてもの品が飲み物とカブトムシの幼虫で。 

 このあたり一帯は塩田で。 




 知ってる。 

 相馬市は本当に産業なんて何もなくて。 

 原発すらもなくて、相馬市の財政は厳しくて。 

 なのに、何故、こんな人たちまで被害を蒙るのだ。 

 気を緩めたら泣きそうだ。苦しい。 





 農夫の男性が差し出すカブトムシの幼虫を、湘南から来たという明るい六十代ぐらいの男性が軽妙に引き受けた。 

「うわあ、いいんですかあ? じゃあ貰っちゃおうと」 

 救われた気分だった。 
 この男性には心から感謝した。 
 この湘南文化的な軽妙さが、本当にありがたかった。わたしは凍りつくばかりで、相手の心の負担を減らすことすらできなかったから。
 休憩時間をはさんで作業を開始すると、わたしが動かしているネコ車がブレ始めた。 
 腕の筋肉がつりそうだ。 まずい。
 小田原市の年輩の男性は、よく目配りが利いた。 

「彼女、もう疲れてる。シャベルに廻して」 

 シャベルに廻ったとしても、たいして掬えないし、ようするに使い物にならないのだが、ネコ車ごとヘドロに突っ込んでいったら、それこそ大騒ぎである。実際、午前中、小田原市の職員の人がそれで騒動を起こしたという。 そうなっても仕方ないので、おとなしくシャベルに廻る。 
 しかし、ヘドロが重い。 
 なんていう重さだろう。他の人の半分ぐらいしか掬えてないのに、つい、口走った。 

「重いっ」 

 すると小田原市の年輩の職員の人が、励ますように言ってくれた。 

「なあほら、いくらヘドロの掻き出しが大変だって聞かされても、実際にやってみないと解らないだろう? なんでもまずは自分でやってみることだ」 

 それからさりげなく教えてくれた。

「真っ黒になってるところまでがヘドロだ。そこまで掬えばいいから」 

 深さ20cmぐらいのところに、土の色が真っ黒な重油のように変わる部分が現れる。そこまでを掬い取る。 
 ちなみにスコップは現場にいくらでも転がっていて、持参したものを使う必要はなかった。角型スコップの出番はどこなんだろう、と思ったら、表土を薄く掻きだすときで、 
内心、

「ん? このスコップって、力が分散しちゃって全然掻きだせないんですが、どうしたらいいんでしょう」 

と、表土を撫で回すだけ、みたいな無為を繰り返していたら、地元の女の子から、 

「おら! 足を使え、足を! おらー!」 

と怒鳴られた。あ、そうですか、すいません。

 彼女からはあとで聞こえよがしに、 

「トロトロしてると、ホント、ムカつくよねー!」 

などと言われたのだが、肉体労働の世界には苛めはありがちである。 

 仕方がない。 
 実際、使えない奴だったしなあ。 
 役立ったのかどうか、さっぱり解らない作業を終えて。 
 リーダーの子が挨拶する。 

「以上で作業は終了となります。ありがとうございました!」 



 なるほど、こう言えばいいのか。わたしなら、 

「お役に立てずに、申し訳ございませんでした」

と謝っちゃう場面だな。しかしそのマイナスな表現だと、きっと相手まで落ち込ませるよな。この表現は、とても正しいと思う。 
 ボランティアセンターに一度戻って、安否を伝える。それから車の足回りをジェット水流で流してくれるというので、お願いした。車の移動で汚染物質が運ばれるのが怖かった。
 帰路につくと、また峠道。 
 ひとりきりになって、行きかう車もなくなってから思った。 
 わたしだって言いたかった。「がんばろう、福島」と言いたかった。 
「がんばろう、相馬」。「がんばろう、いわき」。 
 言いたかった。あの事故さえなければ、積極的に福島の物を買って欲しいと、広く伝えたかった。


 でも、言えない。わたしはそれを「風評被害」で片付けられない。 


 けれど、この地で生きていく人たちのことも切り捨てられない。カブトムシの幼虫を差し出した農夫の人を、わたしは生涯、忘れない。


泣いてもいいんだ、わたしは弱いから。 
そう決めた途端、涙が溢れてきた。 
ごめんなさい、いわき。
ごめんなさい、相馬。
こめんなさい、福島。 
わたしは故郷に仇をなす人間です。





 余談となるが、わたしは『チェルノブイリ原発事故10年後』に関する映像を見た。小児の甲状腺がんだけに留まらず、大人にまで広がるさまざまな疾患。記録に留められている。
 わたしの記録はほんのささやかなもので、単にひとりの人間が福島で右往左往しただけの3週間を記したもの。しかも故郷に仇をなす人間の記録だ。

 批判はあるだろうと思う。だが、それでも仕方ないと思うのだ。
 細野原発事故担当大臣は、福島市で記者団に対し、放射性物質を帯びた瓦礫などについて、一時的に福島県内の市町村で保管することになるものの、最終処分の場所は福島県外とする方向で検討したいという考えを示したという。
 わたしは瓦礫を他県で処分するのは反対する。汚染は封じ込めるのが基本だ。拡散させてはいけない。いまの「福島」をその場しのぎで助けるために、他県まで巻き添えにしてどうしようというのだ。

 現在、福島では苦渋の決断で、汚染された地域から移住する人々も目だってきているという。その意味すら、瓦礫を他県で最終処分したら失われる。
「復興」という事が事実上不可能なのを素直に受け入れずに足掻くのは、原爆の悲劇が二度も繰り返されるまで延々と「敗戦」を認めなかった精神に相通じるものを感じる。全員玉砕こそがこの国の望みなのか?

 八月だ。否が応でも、わたしはあの戦争を連想する。わたしが生きていなかった時代のことなのに、まるでそこに転がっているかのように、この国の精神性は当時から変わっていないように思う。
 わたしは全員で「玉砕」することを「美」とは思わない。
 ひとりでもより多くの人に、健やかに、生き延びて欲しいのだ。
 わたしの願いはただそれだけである。
 長らくお付き合いいただいた「福島記」ですが、これをもって終わりとさせていただきます。ありがとうございました。 



 余談となるが、わたしは『チェルノブイリ原発事故10年後』に関する映像を見た。小児の甲状腺がんだけに留まらず、大人にまで広がるさまざまな疾患。記録に留められている。
 わたしの記録はほんのささやかなもので、単にひとりの人間が福島で右往左往しただけの3週間を記したもの。しかも故郷に仇をなす人間の記録だ。
 批判はあるだろうと思う。だが、それでも仕方ないと思うのだ。
 細野原発事故担当大臣は、福島市で記者団に対し、放射性物質を帯びた瓦礫などについて、一時的に福島県内の市町村で保管することになるものの、最終処分の場所は福島県外とする方向で検討したいという考えを示したという。
 わたしは瓦礫を他県で処分するのは反対する。汚染は封じ込めるのが基本だ。拡散させてはいけない。いまの「福島」をその場しのぎで助けるために、他県まで巻き添えにしてどうしようというのだ。
 現在、福島では苦渋の決断で、汚染された地域から移住する人々も目だってきているという。その意味すら、瓦礫を他県で最終処分したら失われる。
「復興」という事が事実上不可能なのを素直に受け入れずに足掻くのは、原爆の悲劇が二度も繰り返されるまで延々と「敗戦」を認めなかった精神に相通じるものを感じる。全員玉砕こそがこの国の望みなのか?
 八月だ。否が応でも、わたしはあの戦争を連想する。わたしが生きていなかった時代のことなのに、まるでそこに転がっているかのように、この国の精神性は当時から変わっていないように思う。
 わたしは全員で「玉砕」することを「美」とは思わない。


 ひとりでもより多くの人に、健やかに、生き延びて欲しいのだ。



 わたしの願いはただそれだけである。


 長らくお付き合いいただいた「福島記」ですが、これをもって終わりとさせていただきます。ありがとうございました。

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