わたしは、ときどき自分にうんざりする。
そしていまがそうだ。だけど同時に、とても醒めた自分がいて、人の流れを観察している。
この「栃木行 その3」は、この流れのなかでは番外編になるのだが、いまの気持ちを伝えたい。
「人には明かさないほうがいいよ」
と夫には言われたが、わたしに唯一、存在理由があるとしたら、原稿の上では正直になろうと努力することぐらいだろうと思うので打ち明ける。
先日また、栃木に行ってきた。
結果から言うと、わたしは栃木の家を売り抜けられそうなのである。
ごくわずかながら売却益が出そうな雰囲気だ。
2年前に豊洲のマンションを売却したときに使った3000万特例(というものがあります、3000万以下の売却益に対して税金がかからない、という。一度使ったら5年以上たたないと二度目は使えない)は今回は使えないから、「益」といっても微々たるものなのだが、少なくとも、損はしなかった。
わたしの自分の住まいに関する他者からの評価というのはいつも、嘲笑から憎悪への推移だった。
発端はお台場だった。夫と結婚するにあたって新居を探していて、「お台場」という謎の土地に公団住宅ができるのを知ったのである。
現在は全国的に地名が知られているお台場は、ちょうど「十三号埋立地」から名称が変わったばかりだった。
わたしはお台場に実際に足を運び、ここにかなり大掛かりな都市計画があるのを知った。伸びるな、と予感した。数年耐えれば、ここは伸びる、と。
しかしここに新居を決めた当時は、
「山崎が湾岸の妙な埋立地に新居を買った(これは完全な誤解。あくまで賃貸)」
と物笑いの種になった。お台場ってどこだそれ、と尋ねる人に、湾岸の埋立地ですよと答えると、馬鹿にされた。
「埋立地なんて、地震が来たら液状化するんじゃないですかあ?」
「かもしれませんけど。好きなんですよね、埋立地」
これは負け惜しみでなかった。本音だった。
お台場が伸びると予感しただけではなく、わたしは冗談抜きで埋立地で暮らすというのが、妙にしっくりきたのである。
二十二歳のころ、わたしは真夜中に十三号地を歩くのが好きだった。
スチールボールやケミカルアンカーで解体されたビルの、コンクリートの瓦礫が投棄された地面が、暗い東京湾まで続いている。
埋立地のエッジに着くと、波のない海が待ち受けている。
遠くでは東京都の最終処分場が、二十四時間、煌々とした明かりを灯して、埋め立てを続けている。
荒涼としたその風景は、当時のわたしの心情に響いた。
世界の果てがあるとしたら、こんな感じかもしれないと思った。
人の欲望が、壊れて投げ出され、作り出された人工の土地。
わたしの友人は、人間を「自然界の生んだバグ」だと表現した。
バグにふさわしい土地だなと思った。
人は、こういう場所に住めばよい。身を潜めるようにして、住めばよい。
それから時を経て、二十八歳のわたしが再度発見した十三号地は「お台場」と名称を変えて、コンクリートの瓦礫を表土で覆い、芝生の植生が施され、あたかも自然豊かな土地であるかのような顔を装っていた。
だが、この薄い表土を剥げば、この土地は瓦礫の山なのだ。
そこが妙に好ましかった。
当たり前といえば当たり前なのだが、そんなわたしの心情が理解されるわけもなく、むしろ更なる嘲笑を買った。
「埋立地が好きって。『ああこれは良い埋め立てだなあ』とか『悪い埋め立てだなあ』とかあるんですか?」
笑って答えなかった。
理解の糸口さえ見えないときは、黙すること。
それぐらいの知恵は、わたしにだって、ある。
しかしお台場は数年も待たずして激変した。
わたしが引っ越してすぐにフジテレビが移転してきて、メディアはお台場を連呼するようになった。すると名刺を差し出すときの人の受け止め方が変わった。事務所を構えているような稼ぎのある人は別として、基本、貧乏なフリーライターの名刺に書く住所というのは、自分の住まいである。
「凄い、お台場にお住まいなんですね!」
東京という場所は、他者の住まいで、その人の社会的地位を推し量る。そういう土地だ。
港区台場。
この虚栄が、わたしの仕事を楽にした。
その一方で、なにかに醒めていく自分を感じていた。
次の住居は豊洲だった。これまた埋立地である。
発展しても、お台場というのは生活には不便な場所で、ある日わたしは「亀の子たわし」を求めて、自転車で門前仲町に向かった。
その帰り、夕暮れのなかで倉庫街にぽつんと、マンションのパビリオンの明かりが灯っていた。ちょっと興味を引かれた。どんな物好きがここにマンションを買い求めるのだろうとからかうような気分で立ち寄った。
するとデベロッパーから、豊洲には大規模な都市開発計画があるのを教えて貰った。
ここもまた、第二の台場になるな、と感じた。
新橋から続く新交通ゆりかもめの終点、銀座から4キロメートルという距離、地下鉄有楽町線で銀座一丁目から3駅。東京駅への路線バス。これでデベロッパーからの説明通り複合商業施設などが出揃えば、ここは伸びる。
お台場から豊洲に引っ越すと、また物笑いの種になった。
「山崎さん、都市に暮らすということは、利便性を求めるということだよ」
一方、かげでは、吐き捨てるようにこう言われていたらしい。
「山崎は台場を売り抜け、豊洲とかいうところに広いマンションを買ったらしい」
台場は賃貸物件なので完全な誤解なのだが、まあ、憎悪されたり嘲笑されたり、忙しいことだ。
豊洲のマンションに遊びに来た吉祥寺住まいの友人も嗤った。鼻で歌う。
「窓を開けたら、倉庫ぉ、倉庫ぉ」
もっともわたしは当時、彼女の「利口さ」を尊敬していたので、苦笑するばかりで気にしなかった。利口な人より賢明な人と付き合いたいと感じるように至る以前の話だ。
やがて豊洲に住まう人を、メディアが「キャナリーゼ(日本語っぽく訳すと“運河人”になるのだが、なんだそれは)」などと称して、持ち上げる時代がやってきた。豊洲の発展はお台場のときほどはスピーディーではなく、6、7年、かかったのだが。
ちょっと考えれば誰だって解ることだ。
デベロッパーという仕掛け人がいて、煽っている。
バブルが弾けたって不動産業界がつぶれないのは、こうして小さなバブルをあちこちで展開していたからだ。
その時点で誰もが羨む場所に不動産を求めるということは、その人は、一番高値掴みをしているということだ。なぜか、ここに皆、気づかない。
見栄を取るか実を取るかで、大半の人は見栄を選ぶ。
わたしにはそこがいつも不思議だ。
まあ、見栄を取ることで得る実がある人がいるのも解るけれども。
本当に豊洲を高値で売り抜けるとすればリーマンショックの直前がよかったのだが、不動産の値崩れというのはデベロッパーが慌てて抑える。抑えてくれているあいだに、わたしは遅ればせながら売り抜けた。
不動産売買はデベロッパーが胴元をつとめる賭け事だ。
わたしはせいぜい、パチンコ屋の新装開店に並んで、ちょっとしたおこぼれに預かった程度に過ぎないのだが。
夫はまったく、こういうことに嗅覚が働かない。
そういう夫を、実は密かに、そして最も気に入ってるのは、わたしだろう。当人には絶対言わないけれど(夫はわたしの原稿を一切読まない。そこも、気に入りの理由のひとつだ。人の原稿を読んであれこれ批評がましいことを言うような相手なら、わたしは縁を切る)。
栃木の家の競売も、業者との争いだった。
不動産業者というのは、競売で落とした家に安いリフォームをかけて値段を上乗せして売り出し、利益を得る。
わたしは僅差で彼らに競り勝った。
原発が爆発したとき、わたしもついに勝負に敗れたなと苦笑した。一方で、勝負から降りた気楽さがあった。博打というのは、けっこう疲れる。
もういいわ、と思った。
その後、夫を高知に残して福島に向かい、浜通りの惨状を目にした。
津波の被害を受けない場所でも、売り家、売り地の看板だらけだった。新築同様の家がゴーストタウンのなかに、ぴかぴかに建ってる。だけど原発から至近距離にあるこれらの家を、だれが求めるというのだろう。後に浜通りの資産価値はゼロと国から評価された。固定資産税がかからない家が、いまも浜通りには建ち並んでいるだろう。
地上に築く富は、なんて虚しいのだろう。
わたしは、負けるのが嫌だった。こういう勝負で、負けるのが嫌だった。他人に食い物にされるのは、もう真っ平だと、いつも感じていた。
だから戦い続けた。
けれど、とうとう裁かれたのだ。いいだろう。当然だ。
高知の月額2万円の借家に戻ると、夫がゴミで風呂を沸かしていた。別に取り立てて不満そうな顔もせずに、山のなかの古ぼけた家にいた。
わたしといたせいで、この人は、随分と苦労している。
なのに笑っている。
確かにわたしの現世的な力というのは、一時的には存在したと思う。
わたしは夫から養ってもらったことは、ない。とはいえ、だ。
地元に帰れば縁故採用の道が開けていたであろうこの人は、実にあっさり、わたしが首都圏でないと働けないというだけの理由で、その選択肢を捨てたのだ。選んだ勤め先は、夫が一生、昇進できない場所だった。なのに、僕が採用になった就職先はね、転勤がないんだよと、ほがらかにわたしに報告した。
そしていま、夫はぼろぼろの家で、ゴミを燃やして風呂を炊いている。
なのに笑っている。
温かい炊き立ての会津米と有明海苔、そして梅干におかかをあえて、お結びを作った。
わたしには食物貯蔵の癖がある。
これは冷夏の年に日本が緊急にタイ米を輸入したときの経験が活きている。若年層は知らないようだが、「1993年米騒動」と称された米不足があった。長引いた梅雨と日照不足で東北地方が特に不作で、日本米1000万トンの需要に対して、収穫量が800万トンを下回る事態となった。
本来なら、日本国民は飢餓に陥っていただろう。
日本米は買占めと売り惜しみから品薄となり、やがて店頭から消えた。その代わりに日本が金に飽かせて買い占めたのがタイ米である。バブルが弾けたばかりの時代だったから、日本経済は強かった。
しかし短粒のジャポニカ米に慣れた消費者には、長粒のインディカ米が舌に合わず、輸入はしたものの、家畜の餌にされたり、投棄されることもしばしばだった。当然、輸入元となったタイ国内では米の価格が急騰していた。だからこの事実を報道で知ったタイ国民は怒り狂った。それを治めてくれたくれたのは、現タイ国王だった。
「こちらが困ったときに、相手が助けてくれることもある。またその逆もある。だからいまは許しましょう」
そんな意味合いのメッセージを国民に伝えて、日本の暴挙に対するタイ国民の怒りを静めてくれたのだ。わたしはタイ米を捨てはしなかった(ごく若い時期にタイを旅行した経験がたまたま幸いした。現地の味に少しばかり親しんでいたので、タイ米ならではの良さをちょっとは知っていたのである)。とはいえ、同じ日本人の振る舞いが、どれだけタイの人たちには無礼で傲慢に映るだろうと考えると、陰鬱な気持ちになった。
そんな訳で、貯蔵癖がついたわたしはいつも「古米」を食べている。翌年の天候など、人知の及ぶところではない。だから会津米を一俵、買い置きしておいて、次の新米が出る季節になると精米する。また、これも人からは妙な癖と言われるのだが、海苔、梅干、味噌、それから戻しやすい乾物などを、買い溜めて冷蔵庫に保存しておく性質なのだ。
「山崎の家の冷蔵庫は、なんで梅干や味噌ばっかりなんだー!」
と友人からびっくりされたが、「最低限、これがあれば生きていけそうなものを溜める」というのは、もはやわたしの習性と化している。だから会津米も、有明海苔も、農家のおばあちゃんたちが作った産直の国産梅干も、全部、3.11以前のものだ。
美味しい美味しいと、夫はわたしの作ったお結びを食べた。
こんな貧乏生活をさせているのに、夫は笑っている。
わたしは負けた。
なのに寄り添っていてくれる夫がいる。
敗残して初めて見えてきたものがある。
それがなにとは言わないけれど、わたしの唯一の財産はそれだ。
そう考えて、栃木の家については、これから延々と固定資産税だけ支払うはめになるのだなあと、ぼんやり思ってた。あそこは、国から資産価値ゼロとは評価されていない。博打のつけは手痛いものだ。しかし、当然だ。これでよい。
ところがそんな矢先だった。
福島の母から、実に不思議な相談を受けたのだ。
実家が経営している会社の旧社屋があった。そこが3.11で全壊(といっても、ぺしゃんこに潰れたわけではなく、解体は必要な状態ではあったのだが、行政の評価として、全壊)したのだが、そこにできた空き地にアパートを建てたいから売って欲しいという話が来ているというのだ。
愕然とした。
いまさら、福島に?
確かに原発事故以前ならば、地方の立地としては高く評価できる。新幹線の駅から徒歩5分、ジャスコから徒歩5分。
しかし、原発からは直線距離で80キロなのだ。
もしや、と思った。もしかすると、世間の人は、原発事故がもう収束したと認識しているのではないか? と。
現在も原発事故は収束のめどすら立たず、毎日、あの壊れた建屋の上から放射性物質を絶賛放出中だ。本気で生き残りたいのなら、海外に逃げるのを真剣に考えたほうがいいだろう。特に若い人には、わたしは強くそれを勧めたい。
しかしどうやら世間一般の認識は違うようだと、まるで地震で隠れた机の下から首だけ出して、怯えてあたりを見回すような気分で周囲の挙動をうかがった。
おかしい。わたしは今度こそ、負けたはずではなかったのか?
原発は廃炉の見込みもないのに「未来の技術」とやらに期待して作られた「夢のエネルギー」施設だ。しかし放射性物質の半減期の前には厳然とした「物理」というものが立ちはだかる。福島ではなにやらEM菌(堆肥を発酵させるための嫌気性菌らしいのだが、死滅させてもEM菌からは“波動”なる謎のものが出るらしい)が「除染」に役立つとかなんとか、訳の分からないエセ科学(はっきりと言わせて貰おう)に期待を寄せる人もいたりするようだが、物理というのは、物の、ことわりである。それが根底から変わるというのなら、宇宙自体の存在が変わる。そう、これ、皮肉です。
正直に言おう。わたしは栃木の家を売り抜けるにあたって、「人を騙した」。それは否定しない。だが、わたしに易々と騙される人がいることを、わずかながら、悲しく思う。
しかしそんなわたしも敗北は近い。すでに円安の波は来ている。たぶん預貯金など無意味になる。それ以前に、わたしが5年後に生きているかどうかも、怪しい。
地上に積む富は、なんて虚しいものか。
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