昨年の九月ぐらいから、わたしはちょくちょく、なんらかの理由で病院にかかっている。
わたしはこのサイトが、「The Issue for Japan」であるのを幸運だと感じている。海外からのアクセスも少なくない。
(校正者注:当時、文芸春秋の『山崎マキコの時事音痴』と言うタイトルでWEB連載されていた。其れの書き起こしである)
わたし自身のコンテンツは他国の人の目に触れることはないかもしれないが、可能性がまったくないとは言えない。
インターネットという文化は、玉石混交であるにせよ、ある種の人類の知的財産となり得ると考えている。わたしの書いたものはとても知的財産とは言えないのだが、なんらかの記録になるかもしれないので、3.11以降の体調不良について記しておこうかと思う。
まず、福島県相馬市松川浦のボランティアに行ったあとに起こった奇妙な「怪我」のようなもの。
なお、相馬市は、福島第一原発から北北西、約42Kmあたりに位置する「浜通り」の漁業の町である。原発は立地していない自治体だ。なお、空間線量自体は3月12日時点で0.16μSv/hと、さほど高くはない。(しかしこれはまだ推測の域を出ないと言われたらそれまでなのだが、あのあたりはどうもおかしい。よければ南相馬市の大山こういち市議会議員のブログを検索してみて欲しい。通称「黒い粉」と呼ばれる物質に、わたしは強い疑惑を抱いている。
神戸大の山内知也教授に測定を依頼したところ、この「黒い粉」は、1kg当たり約108万ベクレルというとんでもない値の放射性セシウムが検出された。
共同通信などがネットでニュースを報じているので、ソースに疑念を持つ人は確認するといい。ちなみに、この「黒い粉」が当たり前のように通学路のそこここに存在しているというのに、南相馬では学校が再開されている)。
ボランティアに行ってから数日経つと、左足の、ちょうど靴下で隠れるあたりに、タバコを押し付けたような大きさに、針でつついたような虫刺されのような赤い痕が集合して出来た。あきらかに「蚊」ではない。最初は「ツツガムシ」を疑った。やがて膨らみ、皮が剥けた。これからどうなるのだろうと思って観察していた。皮膚はなかなか再生せずに、生傷のままで、靴下に血がつく状態が1カ月半から2カ月ほどは続いたように記憶している。
やがて、皮膚が再生した。
しかし表皮ではなく、真皮のあたりで、茶色い薄い皮膚だった。だからわたしの左足の脛には、二箇所、タバコを押し付けたぐらいの大きさで、凹んだところがある。
九月から十月にかけては、二度の膀胱炎と二度の風邪による発熱。
いずれも抗生剤の投与で治癒。この時期に、コンビニで気分が悪くなり、気絶して転倒。頭を強く打つ。
店内が騒然として、救急車で運ばれる。(頭部のCTを受けたが、幸い、なんともなかった)。
十一月あたりから年末ごろまで頻尿で悩まされる。
加齢によるものだろうと受け止めていたが、気がつくと収まっていた。また、頻繁な頭痛。非ピリン系の市販薬、「セデス・ハイ」に頼っていたが、やがて耐えられなくなり、第一種医薬品(市販薬だが、薬剤師が対面で販売しないとならない医薬品)の「ロキソニンS」に切り替える(最近までは、市販されていなかった処方薬だった)。余談だが、高知のドラッグ・ストアは医薬部外品しか取り扱わないので(どうも、薬剤師を雇うだけ儲からないようだ。薬剤師の時給は高知感覚では、とても高い)、入手に困る。
年始、道路標識がぼやけて目を凝らさないと見えなくなっているのに驚く。視力の低下に薄々気づいたのだが、実は検査していない。
一月、高知赤十字病院でうずらの卵ほどの大きさのポリープをふたつ、処置してもらう。
病理にまわされる(要するに、良性か悪性かの検査)。これはちょっと困った事態になった。えげつない話で大変申し訳ないのだが、ポリープの処置は、麻酔を用いないと知る。
けっこうな鈍痛に襲われた。処置台から降りたとき、失禁してしまったかと驚いたが、これは出血だった。これでいいのだろうかと若干、不安に陥ったのだが、担当医からも出血があるとは聞いていたし、
「翌日も出血がとまらないようなら電話をして、来院するように」
と言われたので、こんなものなのだろうと自分に言い聞かせて診察室を出た。しかし明らかに出血が激しいので、父を看取ったときの経験から、老人介護用の「尿取りオムツ」を売店で買い求めた。3回分、吸えるというものだった。痛み止めは処方されなかったので、ロキソニンに頼り、帰宅。帰宅すると出血が漏れていたので、慌ててオムツを取り替え、着替える。横たわっていたのだが、頻繁にオムツの取替えが必要となり、なにかがおかしいと感じ始める。夜間、明らかに出血が多すぎると判断して、高知赤十字病院へ。
着用していたオムツの重量を看護師の人が計り、「230gです!」と叫んでいた。そもそも何度、オムツを交換したのか、自分でも憶えていないほどなのだ。
さすがに驚いたが、水と血液の比重は違うと心を沈める。
出血多量による緊急処置。
止血剤を含んだ脱脂綿を詰め込まれ(子宮という内臓をギュウギュウと押されるので、思わずうめいてしまった)、カテーテル挿入でストレッチから抱えあげられてベッドに移動。
これでも出血が止まらないようなら、脊髄麻酔で傷跡を「焼く」と言われる。
本当にかすかではあるが、女子高生コンクリート殺人事件の痛みと恐怖と苦しさを推察できた。恐怖で脳が萎縮するのも納得である。
また、痛みで眠れない日々だっただろうと思う。痛み止めの入った点滴の効果が現れるまで、眠れなかった。
幸い、さほど血圧が下がっていなかったので、輸血は免れた。
ベッドに縛り付けて固定されるところだったが、絶対動かないと約束して、それも免れた。
憶測に過ぎないが、JCOの人は、人工呼吸器を自力で外さないように、縛られて身動きが取れなくされていた気がする。
退院後も「絶対安静」を言い渡され、一週間ほど横になるだけの生活を過ごす。二週間後に来院すると、今度は「卵巣嚢腫」を経過観察すると言い渡される。さすがにげんなりする。
この時期になると、風邪で発熱しても、市販薬をバカスカ飲んで、適当にごまかして働くようになる。
二月、高知にUターン就職した大学時代の女友達と、高知市内のホテルのラウンジでワッフルを食べていたところ、突然、差し歯が脱落。
あまりの格好悪さに気まずくなる。デンタルクリニックで新しい差し歯を作ることになる。ついでにレントゲンで虫歯の検査。なにもないと言われる。当然だと誇らしく思う。
なにせ、一日に最低でも五、六回は歯を磨いている。そのために研磨剤が含まれていない歯磨き粉も選んでいる。第二種医薬品のアセスである。三種のハーブで歯肉炎・歯槽膿漏にも対策が講じられている。
ちょっと高いのが難点だが、これに勝る歯磨き粉はないと体験的に評価している。
だがその数日後、上顎がやたらと痛くなる。歯が痛いのか、歯茎が痛いのか、判らない。
精神的なものを疑い、耐える。しかし左顔面が痛くて、さすがのロキソニンすら効かない。これは明らかにおかしいと判断して、再びデンタル・クリニックへ。歯肉がなんらかの細菌で炎症を起こしていると診察されて、再び抗生剤を処方される。本気でうんざりしてくる。
三月。右顎の下から舌の裏にかけて痛くてたまらなくなる。
やがて右の耳の下から顎に沿ってまで痛んでくる。しかし、どこの病院にかかったらいいのか判らず、困惑する。はたと思いついて、薬剤師のいる薬局まで遠出する。相談してみると、耳鼻咽喉科だろうと助言を貰う。耳鼻咽喉科でCTスキャン(こうもたびたびレントゲンやらCTやらで被曝すると、それだけでもDNAの自己修復機能が間に合わなくなるように思えて不気味)。舌下線炎か舌下腺癌だろうと、聞いたこともない病名を告げられる。とりあえず抗生剤が効くか試すと言われる。幸い、効果が出た。
さらに、先週、どうしても右の上腕部が痛くて高知赤十字病院に(夜間診療になったので大変申し訳ないのだが、どうも死にっぱぐってから、妙な体調の不良に不安を感じる。緊急性があるかないのか、判別がつかないのだ)。レントゲンの結果、
「骨を折ったことはないか」
と幾度も確認される。確かに、レントゲンの画像の骨のところに、細い筋がある。しかし、まったく身に憶えがない。後日、改めて検査するということになっている。
チェルノブイリ・エイズという言葉がある。
IAEAは甲状腺癌の増加しか認めてはいないが、確実にその事象は現地で見受けられるという。
無論、わたしの感じているストレスも否定しないし、加齢によるものとも言えるかもしれないし、体調管理ができていないと言われても、笑って流せる。
ただひとつ、これだけは確実に言えることだが、わたし個人に限っても、国の保険制度に大変な圧迫をかけている。今後、本格的にこうした事象が広がれば、それだけでも、米国民から羨ましがられた皆保険制度が、遠からず破綻を来たす気がしてならない。ベラルーシの財政が危機に瀕している理由は、医療費の増加と、本来なら働く世代の就労困難によるものだと聞く。
最近、福島の母が「ピンピンコロリ地蔵」が近隣にあると耳にして、お参りに行ったと言う。苦笑するが、同時に悲しい。
日出る国の、日没。
それどころか、四号機が核燃料棒を無事に取り出せる前に倒壊すれば、北半球の命運すらも解らない状況。2月29日発売の週刊朝日では、原子力技術者のアーニー・ガンダーセンが、四号機の倒壊による核燃料火災という、人類史上、例のなかった大惨事に陥るという可能性を指摘している。わたしがネットで目撃した四号機の画像は、ほとんどスクラップ状態だった。東電は応急処置を施してはいるが、度重なる浜通りの余震で、コンクリートの疲労劣化が進んでいるのは明らかだ。
わたしは、そして同時代を生きる人々は、黙示録に立ち会うことになるのだろうか。知恵の実を食べたために楽園から追放されたという旧約聖書の記述に、底知れない不気味さを覚える。
さてそろそろ小山についての話を再開したい。
信末さんのところをおいとました後、小山にいた頃にたまに訪れていた蕎麦屋に向かった。昭和30年代からあるような、小さな古びた店舗。引き戸を開けると店の真ん中に円筒状の灯油ストーブがある。隙間風が寒いので、コートを脱げない。皮手袋も、脱げない。底冷えがする。しかし出てきた蕎麦は確かに関東の味で、懐かしさに悲しくなる。
このあたりの農家は蕎麦も生産している。道を行くと、自家製のそば粉の販売を行っている農家の登り旗をよく見かけた。だからこのあたりの蕎麦は地元のそば粉を使っている。国内産のそば粉を用いた蕎麦が食べられるのが、かつて、嬉しかった。
なにもかも、原発が変えた。
注文を聞き間違えたのか、夫だけでなくわたしも大盛りになっていたのだが、何も言わなかった。ここで生きていく人たちのこれからの厳しさを思うと何も言わないというより、言えない。それはこれからの時代を生きる全国民に当てはまることなのだが。とはいえ、西の現状はまだ、ましな状況なのだ。
一杯400円の蕎麦で生計を成り立たせて、つましい暮らしをしてきたこの人たちに、なんの罪があるだろう。罪があるといえば、厳密な意味でいえば、この国の成人たちは皆、罪がある。国のエネルギー政策を問いただせなかったという罪だ。贖える罪などないと、最近、時々思う。罪はただ、背負い続けることしか、できないと。
今回の原発事故を含めた東日本大震災で、わたしは寄付をしなかった。
自分自身もある種の被災者であると言えるからではない。また、福島の母たちも被災者であるからという理由でもない。
はした金で、免罪符など買いたくはない。
そんなことで良心の呵責をごまかしたくない。
この蕎麦屋には通おうと、小山にいた時はよく夫と話していた。安いのに、確かな味。しかしもう二度と、味わうことはないだろう。
蕎麦屋を出ると、夫が、
「畑を見に行ってもいい?」
と、わたしに尋ねた。いいよ、と答えた。家に急ぐ気持ちがあるのと同時に、おそらくわたしも夫も怖いのだ。なんとなく遠回りしている。
あの混乱の直前、夫の初の出荷の準備が整いつつあった。
ハウスのなかでは青物が育っていた。完全無農薬で育てた野菜だった。
信末さんの堆肥を買って、土壌改良を依頼した畑だった。
いい土だった。
風景に、封じていた記憶が蘇る。
畑からはハウスが消えているのが遠目にも解った。ハウスの盗難ってあるんだと信末さんが言っていたのを思い出した。夫が資材を買って、友人ふたりに手伝ってもらって、試行錯誤しながら建てたハウスだった。
車から降りた。筑波山が遠くに見えるだけの関東平野。空っ風に吹かれる。
畑だけが残っていた。
この大地を、放射性プルームが舐めた。
ハウスがなくなっているのを見ても、夫はなにも言わなかった。
パイプを一生懸命組んでいた姿がよみがえった。
地道に畑に通い、ほとんど一人で組み立て、それからどうしても共同作業でないと不可能なビニール張りのときに友人に依頼した。
気のいい友人たちがやってきてくれた。
夫はしばらく畑に目をやっていたが、やがて淡々と、
「行こうか」
と告げた。無言でうなずき、車の助手席に納まった。
いよいよ、家が見えてきた。冬の枯れ草に覆われた庭。
さまざま記憶がいちどきに蘇えってきた。
3月12日、15時36分、一号機建屋で水素爆発。
リアルタイムで報道に踏み切ったのは、福島中央テレビのみだったと後に知った。その後、キー局である日本テレビが全国放送したのは、爆発から1時間余りが過ぎた午後4時50分。
わたしは当時、ネットで錯綜する情報を集めていて、ついにその時を迎えたかと深い虚無に襲われた。ECCSが作動しなくなるとメルトダウンとなり、水素爆発が起きたらその場から出来るだけ遠くに逃げるしかないと、かつて反原発系のWebサイトで読んだのを思い出した。
レベル7だ。
報道は否定している。政府の見解ではレベル4であると。
違う、レベル7だ。
どう考えても、レベル7だ。わたしが過去に学んだことに間違いがなければ。
報道に食い入る夫を部屋に残して、ぼんやりと庭に出た。ガーデンチェアに腰を降ろし、タバコを吹かした。
庭では小鳥が鳴いていた。
樹木にとまったその姿に微笑みながら、
「お前、お逃げ。翼があるのだから、お逃げ」
と語りかけた。小鳥はその場で囀りつづけた。
原発事故など知るよしもない、罪なきもの。
どうしたら罪が贖えるのかをぼんやりと考えた。
日没が美しかった。
こんな事態に陥っても、世界は、美しかった。
チェルノブイリを思い出していた。リクビダートルになるぐらいしか道はないのかなあと考えた。原発事故の処理作業員。チェルノブイリで石棺を作った人々。自分の姪のことを思い浮かべた。あの子が生まれたとき、嬉しかった。なぜか無条件に嬉しかった。天から素晴らしいなにかを託されたひとりになれたことが嬉しくてたまらなかった。
姉は、出産前に読んでいた育児書で「乳幼児突然死症候群」という原因不明とされる病死を強度に恐れ、不眠に陥った。自分が寝ているあいだにこの子が死んでしまうかもしれないから、息をしているかどうか見ていてくれというのである。
わたしは実を言うと、この時期からすでに乳幼児突発死症候群の影には虐待が潜んでいるような気がしてならなかったのだが、姉の不安に寄り添うことにした。
姉が眠っているあいだにキーボードを叩き、姉が目覚めると姪の傍らで眠った。
いつも美しい夢を見た。
この夢はこの子が運んでくれたのだと思った。
生まれてくれて、ありがとう。
父と母、姉とわたしと姪の5人で、沖縄を旅した思い出も蘇った。
現地はあいにくの雨だった。姪が四歳のころだったと思う。海で遊ばせてやることもできず、わたしたちはJALプライベートリゾートオクマの庭をただ歩いた。姪を喜ばせたかった。赤い合羽を着ていたので、
「赤魔道士さんだね」
と言うと、すでにわたしが買い与えたファイナル・ファンタジーで遊んでいた姪は、
「あかまどうし、あかまどうし」
と言って飛び跳ねた。最終日まで、降ったり止んだり、ときおりしか青空は垣間見えなかった。ホテル日航アリビラのオーシャンビューの部屋も意味がないとわたしは落胆していた。
だが、姪は小さな手を窓にぺたりとくっつけて、寂しそうにつぶやいた。
「さよなら。沖縄の青い空、青い海」
幼い詩人よ。どんな言葉よりも、わたしを打つ。
こんな世界に、わたしはあの子を置いていくのか。
何故、こんな世界しか残してやれなかったのだ。
ぼんやりと不安だったのは、バスに揺られていたリクビダートルが、全員男性だったことだけだった。
女でも、石棺は作れるのだろうか。
現場仕事では、ただの足手まといだろうか。ウランの燃料棒を素手でつかんで、石棺に投げ入れるぐらいはできるかもしれないが。
小鳥はただ羽ばたいていた。
無色透明な放射性プルームが襲い掛かる空を。
追想のなか、わたしと夫は玄関の施錠を解いて家に入った。
わたしはトイレに直行した。住友林業の、しっかりとした家。3.11の日も、網戸が外れたぐらいでびくともしなかった。いま住んでいるボロ家となんて違う。和室だって全部、京壁だ。いまの家のように、塗り壁のようなクロスが貼ってあるだけの安普請ではない。なのにわたしはもう、この家に価値を見いだせない。
トイレに入ると、センサーで感知して自動的に蓋があく作りの便座が作動しなかった。
電気を止めていったように思ったので、気にしなかった。
便座は冷えていた。座ると自動的に流れる音楽もなかった。
しかし、困ったのはその後だった。
立ち上がると自動的に流れる作りになっているのだが、これも、当然、作動しないのである。つまりわたしは、水を流せなかった。
憤怒した。なんて、なんてくだらないことに、電気を使っていたのだろう。
豊かさって、なんだ。なにを追い求めてきたのだ。わたしはいままで、なにを追い求めてきたのだ。なんと、くだらない。なんとくだらない生だったのだ。
そのとき、だれかが訪ねてきた。
一郎さんという、地道な農業を実践している、口数の少ない男性だった。夫はとてもこの初老の男性に好意を寄せていた。
悲しげに玄関先に、一郎さんが立っていた。
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