2013年9月12日木曜日

時事音痴/栃木行 その6


 どうしてあのとき、わたしは恐怖したのか。


 後々、考えていた。

 集落の人がひととおり帰っていくと、一郎さんは少しだけ悲しげに微笑み、帰っていった。うつむき加減に歩いている一郎さんの、その背中を見送った。

 本当は、家のなかを見て歩き、どの程度の荷物を処分しなくてはならないのかを確認したかった。
だが、夫にもわたしにもその気力は残っていなかったようだ。夫は無言で車のドアを開けた。気持ちは伝わっていたので、なにも言わずに助手席に乗った。
 車を走らせ出したとたん、夫は集落の方角に振り返り、声を張り上げた。

「放射能食って、死んじまえ!」

 そのときわたしは恐怖した。夫の心の許容量が、ついに超えたのを知った。
 集落の人に囲まれてどれだけあしざまに言われようと、正直わたしは恐怖など感じなかった。だがその言葉に、恐怖したのだ。
 夫と知り合ってもう、二十年以上経つ。だが夫が他人を罵ったり、ましてや呪いの言葉を吐き出す場面に出会ったことはなかった。理不尽な目に遭って帰宅すると、わたしに事の次第を話し、ぷりぷりと怒っている。だが、いつでも最後に、

「でもまあ、あの人もいいところはあるからね」

と気を取り直したように言うのだ。いつでも大抵、話を聞いたわたしのほうが激怒してしまう。やり返してこいと言うわたしと、だからあの人にもいいところはあるんだという夫のあいだで、なぜか口論になる。
 わたしはすっかり忘れていて、後年、夫に言われて、

「あ? そんなこともあった、ような気がしなくもない」

と思ったことがある。

夫が、あるネットの掲示板に書き込みをした。それに絡んできた男がいて、わたしのほうが例によって例のごとく激怒した。身元は明かさなくていいのだが、コテハンを使う掲示板だった。わたしはその掲示板に乗り込んでいって、夫に絡んできた男を罵倒しまくった、らしい。わたしにはそんなことは日常茶飯事なので、なにをどう書き込んだのかはすっかり忘れたのだが、夫によると、相手の男は最後に、

「やめてください。もういちいち反論していたら気が狂いそうです」

と降参して、掲示板から消えたらしい。そもそも、夫の「放射能食って、死んじまえ!」というのも、罵倒したり呪ったりするのが日常茶飯事のわたしにとっては、「まったく、全然なってないな」なのである。もちろん、世の中にはわたし以上に悪意を腹の底に貯めて生きていて、なおかつ悪魔的に頭のいい人間というのはいるので、わたしですら全然なってないレベルなのだが、もう少し言いようがあるというものだ。

「放射能食って、死んじまえ」

 なってない。罵倒するにしても、呪うにしても、この人は全然駄目だ。
 例えば、ローレックスをつけているビジネスマンになりたての大学の先輩がいたとしよう。もともと気に入らない奴だと思っていたとしよう。そんなときは、

「あ、先輩、ローレックスしてるんですね。へー。でもこれ、価格帯がかなり低いのですよね。なんか無理して頑張っちゃってる感じがして微妙かもぉ」

と、哀れむような目をして言ったあと、

「あ! そういえば××先輩はタグホイヤーだった。価格帯はローレックスより低いけど、かえって物の本当の価値が解ってる人に見えるっていうか。ああいうほうが、さりげなくて、都会的で格好いいように女は感じちゃうんですよね。そうそう、先輩もタグホイヤーに変えたらどうですか? ねっ、そのほうがいいですよ。先輩だったらタグホイヤーぐらい買えますでしょ?」

と、明るく、さも親切心で言ってるようなふりをする、とか。


 要は、嫌味、罵倒、呪う、その全てに関しては、内容はどうだっていいのだ。ポイントは、いかに相手に、具体的に嫌なイメージを喚起させるか、である。ちなみにわたしは、一目でローレックスの価格帯を見抜く目など、ない。
だがあれには特注品とかもあったりして、青天井の世界であったりするぐらいは、知っている。
そのへんの知識をまずきっかけ作りに用いて、可能な限り、「女の目から見てダサく映る自分」のイメージを喚起させるよう、言葉を選ぶのだ。頭の鈍いわたしですら、この程度にはやれるというのに、「放射能食って、死んじまえ」。これでどういうイメージが喚起できるというのか。

呪うにしても、これではまったく、自分もすっきりしない。わたしだったらせめて、

「原発で働いていて白血病で亡くなり、労災認定降りた人がいるんだけどさあ。年間被曝量はたったの5mシーベルトだったんだよねえ。ここに居たら年間どのぐらい被曝すんのかなあ。しかも通常運転中の原発って内部被曝を可能な限り避けられるよう徹底して塵や埃を掃除するよう管理されてるっていうのに。ここじゃその辺に放射性の塵も埃も舞ってるわけでさ。ちなみにその労災認定降りた人、二年間、苦しみにのた打ち回ったあげく、最後は唇がアイスクリームのように溶けてしまったんだって」

という程度には、呪う。
 夫の、精一杯吐き出した呪いの言葉はとても「なってない」ものではあるが、わたしは恐怖した。この人の心が、他者からの理不尽な悪意の言葉の暴力で、壊れる。とっさにそう感じた。

 怖いなどというレベルではない。あきらかな、恐怖だった。
 しばらく経ってから、ようやく気づいた。

 家のなかで威張っているのは確かにわたしなのだが、わたしは夫を心のなかで、本当に密かに、敬意を抱いていたのだ。他人を許そうとする努力。わたしに最も欠けているもの。人を愛せる力。わたしが尊く感じているもの。そしてなにより、無欲なこと。わたしが最も、美しいと感じているもの。
 その心が、壊れて、わたしのように汚れる。
 それをわたしは恐怖したのだ。
 夫がいたから、わたしは平気で人を憎めた。夫がいたから、平気で愛する努力を怠れた。夫がいたから、平気で強欲でいられた。

 ある人が言った。自分の善の部分を、身近な人間に預けて済ませてしまう人がいる、と。




 悪は悪で、極めることは難しい。




それは自分の善の部分を、切り捨てる潔さと覚悟、そして人間ならではの苦悩がある。可能ならば、人はだれしも少しは善でありたいという願望はある。悪党になりきるには、自分自身との徹底した対話もいる。そして極めれば、そこには孤独がある。自分と同じ視点で世間を見抜ける者のいない孤独だ。

 善も難しい。善を極めた者はいない。だがそれを目指すことは苦痛の連続だ。愛と赦し。己の心の痛みを耐え、乗り越えていく絶え間ない努力。

 一番簡単なのは、小悪党であることだ。たやすいことだけ善でいて、安直な善意で自分を善人だと思い込み、そのくせして肝心なときには他人を犠牲にしても保身に走り、損得勘定にだけは長け、本気で人を愛したりしない。これほど楽な道はない。

 わたしは、集落の人にいくら罵倒されようが、たいして堪えもしなかった。言葉の暴力で殴りたい奴もいるだろうと予想して、殴りたい奴には殴らせてやれとそれなりの心積もりでやってきたというのもある。だがそれ以上に、相手を平然と軽蔑したのだ。小悪党は救いようがねえな、ああ卑しい、卑しいと、腹の底で笑っていた。

 そもそも彼ら、彼女らの卑しさに気づいたのは、わたし自身のなかに、卑しさがあったからなのだ。人は、自分と似た者の臭いには敏感なものだ。


 かつてこんなことがあった。

 わたしはある時期、上野カトリック教会に週に一度通っていた。別段、クリスチャンであったわけではない。場所だけ借りて集会を行わせてもらっていたのだが、公共施設の集会室というのは、価格がそれなりなのである。ところがカトリック教会というのは、集会に部屋を使わせてもらうのにお幾ら必要でしょうかと尋ねると、神父様が微笑み、「お志で結構ですよ」と言うのである。仲間のなかには、これに打たれて、クリスチャンになった者もいた。すると上野の神父様は言ったという。

「お待ちしていましたよ」

 わたしたちに対する布教の類は、一切なかったのである。ただ、彼は待っていたのだ。その日を、待っていたのだ。
 かなわない、と思った。やられた、完全に一枚上手だ。
 やばい、絶対にクリスチャンになんぞならんとも思った。ちょっと心が揺らいだせいで、余計にそう思った。嫌なの、わたしは「神の意思を知り、それだけを行っていく力を求める」なんていうのは。あきらかに大変じゃん。「疲れたものよ、休ませてあげよう」。言うなよ、ちょっと休んじゃいたくなるじゃん。だけど戦い続けてないと負けちゃうじゃん。わたしは小悪党でいるのが楽なんだからほっといてくれ。


 そんな仲間のなかに、たかり癖がある奴がいた。
 なにかというと、主にわたしに、たかるのである。あるとき緊急の事情が発生して、わたしは彼女に急場を救ってもらった。ちょっとした物を貰ったのだが、その市販価格はどう多く見積もっても

「二百円」

なのである。しかしわたしは彼女に感謝したので、「食事でもご馳走するよ」と言った。まあ、常識的に考えて、八百円ぐらいではなかろうか、そんな場合は。違うかな? しかし彼女は真剣に店を選び始めた。そして回転飲茶という店を選んだ。飲茶が、回転寿司のようにベルトコンベアで巡ってくるのである。
 最初は思った。わたしに遠慮して、一皿、二皿食べて終わりにしちゃうつもりなのかな、と。
 
ところが違った。

飲茶の皿は山積みになり、結果的に、彼女の分だけで






五千円を支払うはめになった。






ありえないだろ!

 お茶してもそうだった。勘定のボードを取らないのでわたしが手にする。会計を済ます。すると外で言う。



「ご馳走様!」




おい、待て、同年代の女同士でお茶をしたら、普通割り勘だろ!
 
あとになって彼女が

「山崎さんはお金に汚い」

と陰口を叩いていたと知ったときは、

「どの口が言うか、この口か、この口か」

と口に右手と左手の人差し指を突っ込み、両側に引っ張ってやりたくなった。
まあ、彼女の過去を考えると、「しょうがないなあ」と思わなくもないので、いいんだけどね。



 ま、それはいい。で、その教会で集会をしていたときのことだ。突然、少し年配の女性と、若い娘さんが飛び込んできた。何事ぞ。

「わたしたち、阪神大震災の被災者の親子なんです! 今夜泊まるところもないんです」

 なに? 教会に泊まりたいわけ? そりゃあ困ったな。
 というのも、わたしたちは教会の鍵は預からせてもらっていたのだが、神父様がちょうどなんらかの用事があり、不在だったのである。これは悲しいことなんだけれども、開けっ放しにしておくと上野にいるホームレスの人たちが教会のあれこれを盗んで行ってしまうそうで。

 上野カトリック教会はどうも財政的に苦しいようで(それは壊れたままのエアコンでも推察がついた)、しかも信者のためにスロープをつけないといけないという状況にあった。
 そんなときにしょっちゅう高いマリア像とか盗まれると、やはり教会といえども困ってしまうんだろうなと思う。想像だけど。わたしはカトリックの理念を理解しているとはいえないけれど、やっぱり理念と現実のあいだにはどうしても乖離が生じるのは致し方ないことだよねと思う。

 つまり、わたしたちは、この親子を追い出し、教会の鍵を閉めなくてはならないんである。
 困ったなあと思った。で、説明した。神父様が不在なので、わたしたちにはなんの権限もないのだと。すると責め立てられた。


「あなたがたはクリスチャンじゃないんですか? わたしたち、本当に困っているんです。今夜泊まるお金もないんです、女二人なのにっ」


 みんなで顔を見合わせた。
 どうすべいか。ていうか、みんなクリスチャンじゃないし、おまけに貧乏人揃いなんですが。


仲間の一人なんて、水道すらも止められて、ウンコ流せなくて困ってんですが。


 しかし困っている人は、ちょっとは助けないとなあ。そこで尋ねた。いくらご用立てすればいいのか、一応お伺いします、と。するとその親子は、

「一万五千円ほど」

と言うのである。人のいい仲間が言った。

「ああ。関西からいらしたからご存知ないかもしれませんが、東京にも、もっと安く泊まれるホテルがありますよ」

 しかしその親子は、なぜか耳を貸さない。一万五千円と言い張ってきかないのである。その日、集会に参加していた仲間は、五人だった。一人当たり三千円。無理。

 後に聞いたところによると、ウンコも流せなくて困っている仲間が、それでも頑張って「なか卯」で二人に食事をご馳走し、自分の部屋に泊めてあげると申し出たらしい。トイレが汚いけど我慢してくれと言って。すると娘は新宿駅で、「もう電池切れ。タクシーに乗りたい」と言い出したっていうんである。

「お金がないです。電車で行きましょう」

 ふてくされてついてくる親子。そればかりか彼女たちは仲間の部屋に着くと、五畳半の部屋は狭いの風呂がついてないと文句を言った挙句、ふたりで当然のごとくベッドを占領しようとしたというのである。普通、客のほうが遠慮すんだろ! ついに怒鳴ってしまいそうになった仲間は、必死に怒りをこらえ、とにかくこの二人に出て行ってもらいたいと思い、なけなしの三千円を渡して出て行ってもらったらしい。
 その後、仲間はモヤシとご飯だけで一週間を過ごさなければならなかった。週払いの派遣社員の、悲惨の極みである。
 一週間後、たかり癖のある例の仲間が、


「あの親子、わたしたちに、たかろうとしてただけですよ!」

と激怒した。
「そもそもおかしいですよ。阪神大震災からもう何年経ってると思います? 七年ですよ、七年。おまけに、あの服、どっちも上等なものでしたよ。クリスチャンってお金持ち多いじゃないですか。だか
らわたしたちにたかれるって踏んだんですよ」


 おお! なるほど。それ、鋭い考察。四谷のイグナチオなんてベンツだBMWだ、ずらっと外車が並んでるもんなあ。
 それと同時にこうも思った。

「たかり癖のある人間は、他人がたかろうとしているのを見抜く」
「つまり人は、自分と同じ心理の人間の心理に敏感である」。

 夫には、卑しさがなかった。だから真っ向からの卑しさに、傷ついた。理解不可能な言葉の暴力に、心を殴られっぱなしになった。

 わたしは卑しいから、卑しさを見抜いた。自分が卑しいからこそ、他人の卑しさを、嘲笑えた。お前ら、なんだかんだ理由をつけているけど、要するに嫉ましいんだよな、と嘲笑えた。ここから出て行けるのを、嫉んでいるんだよな、と嘲笑えた。

 もう少し言わせて貰えば、わたしたちと同じことを、この人たちが本当にできなかったかというと、そうでもないと思うのである。何故なら、みな、非常に裕福そうな、立派な家々の立ち並ぶ集落だったからだ。

 わたしたちは、全てを捨てる覚悟をした。

 先の展望などありはしなかった。
 しかし命だけ。持って行くのは、命だけでよいと、腹を決めたのだ。
 だがこの人たちは? 捨てたくなかったのだ、なにもかも、捨てたくなかったのだ。家も、土地も、いまの経済的基盤も、捨てたくなかったのだ。

 はっきり言わせてもらおう。目先の欲を選んだのだ。

 それが解るのは、わたしが、いつも目先の欲に振り回されてきたからだ。

 夫がこれまで、卑しさに出会わなかったとは思わない。だが、いつも夫は、卑しさを前にするたび、理解できずにただ戸惑っていただけなのだ。だから圧倒的な卑しさを前にして、打ちのめされている。人の悪意だけを叩きつけられ、心を防御できずにいた。心を殴られっぱなしになった。
 わたしが密かに尊ぶ、美しいものが壊れてしまう。

 外でわたしが薄汚いあれやこれやをして、くたびれて、不貞腐れて、だけど帰ればこの人がいた。この人が無欲だから、わたしは平気で強欲になれた。働くっていうのはな、人から搾取してナンボなんだよと思っていた。人を騙くらかして、巻き上げて、ナンボなんだよと思っていた。搾取されっぱなしの夫に苛立ちながら、もっとうまく立ち回れよと叱り飛ばしながら、この人といることをわたしの免罪符にしていたのだ。

 わたしは夫から養って貰ったことはない。

 なんだろう、わたしは気合の入ったフェミニストなんかいな、しかしそこまでプライド高くもなれないけどねえと不思議に思っていたりした。夫がボーナスを貰うと、嬉しそうに全額買い物やわたしとの旅行代(これは割り勘)に使ってしまうのを、苦笑しながら見守っていた。「自分で稼いだ金なんだから、自分が自由に使えばいいのさ」。そしてちょっと鼻にかけていた。「ま、少しばかりは甲斐性がある女と一緒だったおかげで、ちったあ助かったろう」。

 だが事実は逆なのだ。

 本当の意味で助けられていたのは、わたしのほうなのだ。

 もしもわたしが仮に洗礼を受けて、クリスチャンもどきになったとして、教会に寄付をしようとしたとすると、そのときの心理というのは、こうだろうと思う。


「汚く稼いできちゃったけど、神に少しは捧げますから、お目こぼしを」


 それでちょっと自分が善人になれたような気分になって、また翌日から平気で悪行三昧を重ねるのである。
 人を愛する努力を平然と怠ってきたから、こんなときにどう言葉をかければいいのかも、知らない。心底、自分が情けなかった。
 しばらくふたりとも無言でいたのだが、ふいに夫がわたしに気遣った。

「マキちゃん、辛かったでしょう。ごめんね」

 とっさに切り替えした。

「なに謝ってんの? 馬鹿だねー。わたしはあんなの平気ですよ」

 実際、平気だ。

「無理してない?」

「してない」

 それから、真剣に言葉を紡いだ。


「あのさあ、突然関係ない話をするんだが。たしかあれはロシアの物語だったと思うんだ。
極寒のロシアで、ある老夫婦の住む民家に、兵隊たちがやってきて、どういう理由だったか忘れたけど、その老夫婦を零下何十度という野外へ追い出すのね。
 外は猛烈に雪が吹き荒れていて。普通だったら、老夫婦揃って、兵隊たちに呪いの言葉を吐きながら、恨みのなかで死んでいくはずじゃない。
 だけどね、その話は違うの。
老いた夫は妻に、『お前、寒くはないかい?』と、ほとんど剥ぎ取られた自分の衣類を奥さんに着せようとするんだよ。
すると妻は、『あなたこそ寒いでしょう』とね、自分の衣類をね……。
わたしはその奥さんのようには振舞えないと思う。一人一殺とばかり、逆上して兵隊を殺しにかかると思うな。
だけどね――あなたはそうしてくれると思う。わたしの寒さを気遣ってくれると解る。どれほど自分が凍えようとも。わたしはね、世界中のどの女よりも誰よりも恵まれてるんですよ。だから、彼らが何を言おうと、平気なのさ」








 夫がそっとわたしの腿に手を置いた。
 それを強く、握り返した。


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