5月16日に伝え聞いて、この目で見た「福島」です。
この日わたしは、福島県が公表している、
「環境放射能測定結果・検査結果関連情報」(http://wwwcms.pref.fukushima.jp/pcp_portal/PortalServlet;jsessionid=001BE395DCCAC9FFCC1AD4B5D26FB826?DISPLAY_ID=DIRECT&NEXT_DISPLAY_ID=U000004&CONTENTS_ID=23853)の在り処を、姉から教わった。
これを見ると不思議なことが解る。
広い福島県は大きく三つに分類される。福島第一原発がある、海沿いに面したところが「浜通り」、それからひとつ山脈をはさんで、県の中央を背骨のように東北新幹線が走っているのが「中通り」、そして会津磐梯山で有名な新潟寄りの「会津地方」。この三つである。
通常の想像では「環境放射能は浜通りが最も高い」だと思う。わたし自身もそう思っていた。
ところが現実は微妙に違う。浜通りから二つの山脈を隔てた会津地方が低いのは当然として、むしろ、浜通りより中通りのほうが高いのである。ホットスポットは確かに県内のあちこちに分散しているが、大雑把なくくりでいえばそうだ。
また、姉がもうひとつ教えてくれた。
「『小、中学校、都市公園、児童福祉施設等モニタリング』(http://wwwcms.pref.fukushima.jp/pcp_portal/PortalServlet?DISPLAY_ID=DIRECT&NEXT_DISPLAY_ID=U000004&CONTENTS_ID=23855)もあるでしょう? これを見て、県内の親は右往左往しているのよ。少しでも環境放射能の低い学校に子供を通わせようとして。昨日も友だちから、『この学校の学区のなかに空いている物件はないか?』って相談を受けたわ。でも駄目。そういうところはあっという間に埋まっちゃって」
これは想像していなかった。わたしの予想では、県外への脱出を図る親たちは必ずいるだろうと思っていたのだが、局所的な移動までは考えになかった。要するにいまの福島というのは、「空き部屋ばかりの賃貸アパート」と「満室状態の賃貸アパート」に区分できるらしい。
もっとも、わたしが予想していたことも現実には起きているらしい。
「カトリック幼稚園は、児童の半分がいなくなったという話よ」
ミッション系の幼稚園は、親が富裕層であることが多い。
酷い話だ。
親の財力の有無によって、子供が受ける被曝量が決定される。
わたしが福島に来るに当たって、何を見て、何をすればよいのかという計画はひとつもない。しかし、環境放射能のことはさておいて、いまの福島を見るためには、福島第一原発のある浜通りは避けて通れない場所だろう。
それで母に告げた。
「今日は、まず、浜通りに行こうと思う」
するとなぜか急かされた。
「浜通りといっても広い! どこを見たいのか、インターネットで検索しなさいっ」
どうしてわたしは母に急かされているのだろう?
疑問に思いつつも、
「あくまで噂としてだけど、30km圏内に無許可で立ち入ると懲役1年になるって話もあるしなあ? どこまで行けるだろう? いわき市が限界?」
などと悩みつつ、単純に「いわき市」で検索をかけてみた。
すると福島民報のこんな記事がヒットした。以下、引用
ローマ法王特使いわき視察 被災地の悲しみ届けたい
ローマ法王ベネディクト16世特使のロベール・サラ枢機卿ら一行は14日、東日本大 震災の被災地視察のため、いわき市を訪れた。高位聖職者の法王特使が被災地を視察するのは異例で、いわき市に来るのは初めてだという。
訪れたのはサラ枢機卿とバチカン日本大使のアルベルト・ボッターリ・デ・カステッロ大司教、いわき地区をサポートする埼玉教区の谷大二司教らで、地元のカトリックいわき教会のチェスワフ・フォリシュ神父らが同行した。
一行は小名浜白百合幼稚園で園児の歓迎を受けた後、小名浜港から北上し永崎海岸や久之浜町など壊滅的な被害が出た沿岸部を視察した。サラ枢機卿は多くの家屋が倒壊し、がれき撤去が進む久之浜町を歩き「(震災での)法王の悲しみを伝えるために(日本に)来た。子どもたちや皆さんの悲しみの声を法王に届けたい」などと語った。
一行は13日に来日、いわき市の他、仙台市の被災地などを視察し17日に日本を離れる。
[2011/05/15]
▽画像はこちら:久之浜町を視察するサラ枢機卿(右)とカステッロ大司教(左)
http://www.minpo.jp/var/rev0/0076/7656/IP110515AE0000352000_0002_COBJ.jpg
引用、以上。
驚いた。
まず、枢機卿が来るという異常事態が第一点。
それから、地元民であったわたしですら知らない「久之浜町」というマイナーな地名に首を傾げる。どこなんだろう、それって。
いわき市は広い。むちゃくちゃ、広い。市町村合併の結果、こうなった。端から端まで走るだけで32kmとか、余裕である。
すると横から母が急かす。
「で、どこに行きたいのっ」
強く押されて、とっさに、仕方なく答える。
「ひ、久之浜町」
下調べをろくにしない、体当たり馬鹿な体質がここで顔を出す。
実を言うと、せめてガイガーカウンターを持ち歩きながらの福島記にしたかったのだが、注文したガイガーカウンターが届かないのである。いったい何時になったら届くんだよ。あれは詐欺か? 三営業日中に発送するって最初のメールにはあったのに。訴えてやりたい。(後日、届いたが、あまりにもチャチで、使い物にならないレベルのものであるのが判明した。実を言うと、ガイガーカウンターの扱いについては悩んでいた。放射線にもα線とかβ線とかγ線とかあり、どの数値を拾うのが正しいのかとか、いろいろあった。しかしそんな心配は無用だった。届いた物を見てとっさに連想したのが「taspo」である。ないしは、銀行のキャッシュカード。アメリカから輸入された冷戦時代の過去の遺物らしく、強い放射線を浴びると「カードの色が変わる」という代物で、「核戦争のさいに、このカードの色が変わったら逃げろ」と説明書きにはあった。そんなもの、色が変わった瞬間には死んでるから! おかげで家族から「安物買いの銭失い」と散々失笑された。ちなみに3,900円でした。皆さん、安い物を慌ててつかまないように。)
いわき市のなかでも、小名浜港なら解る。
津波の被害が酷かったと聞くし、福島県最大の港でもある。
どうして「久之浜町」なんだろう?
本当に不思議だ。この謎を解くためだけに、「久之浜町」を訪れる価値はあるのかもしれない。
わたしは正直、浜通りが怖かった。だからこそ、先に見ておこうと思った。この時点で原発はまったく安定したとは言えないし、事故の収束のめどは、無論、立たない。そういう状況だからこそ、一番怖い場所から行ってしまおうと考えたのだ。
出ようとすると、なぜか母がついてくる。
「わたしも行くわ。支払い、終わったし」
母は会社の経営者であると同時に、経理担当である。その日は支払日だった。
驚いた。
どうして? 解っているのか、この状況が。
わたしは母を巻き添えにしたくないんだが。万が一のことを考えて。
だが母はちゃっかり助手席に乗り込んだので、仕方なく連れて行く。
5月15日に中通りの一部を連れて歩いてもらって解ったのだが、あちこちの道の路肩が崩落しているのである。道路が寸断されて復旧していない場所も目にした。わたしがホームポジションとしたのは中通りなのだが、浜通りに出られるのかどうかもわからない。
姉がアドバイスしてくれた。
「あぶくま高原道路が生きてるっていう噂があるわ」
「ああ、トラハイ」
トラハイこと「あぶくま高原道路」というのは、いまとなっては完全に失政となった「トランジットハイウェイ構想」というのから生まれた。
バブルのさなかに、「福島にも空港を!」ということで、東京に農産物とかを空輸しようっていう計画があったらしい。
で、ついでに浜通りと中通りをつなぐ高速も造ってしまった。だから浜通りから福島空港へのアクセスともなっている。
ところが完成した頃には景気は見るも無残な状況で、福島空港は地方によくある赤字空港のひとつに成り果てた。で、この高速も、ほとんど利用者のいない空いた道となった。
ちなみに東北自動車道は、震災直後、仙台へと向かう自衛隊車両に埋め尽くされたと聞く。現在はそういうことはない。ただ、わたしは東北自動車道は使わず、4号線を選んだ。そして「あぶくま高原道路」にアクセス。
さあどうだ、道は、生きているか。
すると、料金所に人がいた。
どうやら通行可能らしい。第一関門、突破である。
道路は、地震直後は寸断されていたみたいだけど、いかにも応急処置という補修をされてなんとか走れる状況になっていた。もっとも、走っていると、トランポリンのように車が揺れる。悪路だ。
しかし考えてしまう。
いまさら福島のインフラを整えてどうしようというのだろう。
国の狙いはなんだ?
ウクライナについてのそこまでの記録は、日本語で目を通せる範囲では探せなかったから解らないが、「チェルノブイリ」周辺で、いまもインフラを整えたりしているのだろうか。解らない。
なんとか無事に浜通りへと到着した。のちに、この日、「あぶくま高原道路」を使って早々と浜通りに出たことが、わたしの本来持っていたはずの土地勘を狂わせる原因になったのだが(この道路が完成するまで、浜通りは本当に県の中心部である「中通り」から隔離されたような僻地であったのを、わたしは、忘れてしまったのだ)、それはまあいい。まずは小名浜港を目指す。
すると県最大の漁港、小名浜港近くに到着する直前になって、なぜか母のケータイに、姉から連絡が入る。
「去年行った小名浜の割烹が、営業中だって!」
この期に及んで、メシの心配かいっ。
正直に言うと、わたしは浜通りに来るのが本当に怖かった。
浜通りの現在の線量は、中通りより低いのだろう。これは県の発表を信じていいと思う。だが、原発事故はまったく収束していないし、初期の段階で多くの人とともにおそらくはわたしも栃木県小山市にいて被曝したとはいえ、いまも放射性物質をミスト状にして放出している原発がそばにあるということは、それだけで心理的な圧迫感を伴う。
ご飯の心配をしている場合じゃないと思うんだけどなあ。
しかし、とにかく母に食事はさせないとならない。割烹の駐車場に停車。
すると若い板前さんが、ランチ営業中だった。
土木関係者みたいな人たちが食事をしている。
この段階までは、軽く倒壊した家屋を見かけるだけで、特に異変なし、という感じである。
カウンター席に座って、中通りから来ましたというと板前さんが歓迎してくれた。
「この店の200m手前まで津波が来たんですよね」
まずいぞ、こっから瓦礫三昧なのか? 行けるのか、久之浜?
福島は宮城と違って、瓦礫の処理が進んでいないという話が頭を過ぎった。不安が増大する。
ここからの板前さんの話が凄かった。
「このあたりも、一時、40歳以下にヨードが配られたんですよね」
生の声を聞くというのは、それだけで怖いものがある。
ヨードを配るような事態……それはそうだ。レベル7で、しかも、4基一度に、である。食欲がうせる。
「自分も一時的に東京の妹のところに避難したんですけど。妹も結婚していて家族がいるし。5日ほどで店の営業のために戻ってきました」
質問を振る。
「いま、福島の水揚げってどうなってるんですか?」
「全面禁止になってます」
「仕入れはどうしてるんですか?」
「もともと築地から送ってもらったりもしてましたし。小名浜だけに頼っていたわけじゃないですからね」
実は、小名浜名物「メヒカリのから揚げ」というのがランチメニューにあったんだけど(売り上げの一部を寄付金にまわすということだった)、わたしはスルーして、母に松花堂弁当を進め、「このあたりではマグロの水揚げはなかったはずだ」と思い、 自分はチラシ寿司にしたという経緯があった。
しかしよくよく見てみたら、メヒカリは愛知からの水揚げのものだった。
そうか、全面禁漁かあ。政府も少しはまとも……いや待て、「ダイバー漂流230km」は(そういう事故があった)、確か3日で230km流されたはず。これからは全面的に魚を食うなという中部大学の武田先生の言うことがやっぱり正しいように思える。
さて食事を終えて。津波の被害を目にするのを覚悟しつつ、まず小名浜港に向かう。
しかし、わたしの実感を言えば「壊滅的」に見えるような被害はなかった。瓦礫はすでに道路からは撤去され、道も復旧していた。
船も、使えそうなものがきちんと残っていた。
屋根の上に船が乗っているという光景もない。
これ、津波の被害だけだったら、小名浜は復興できたんじゃないの?
それがわたしの率直な感想である。
すいません、本職が漁業関係者じゃないので、現実は直接その仕事に関わってる人に伺ってみないことには解りませんが。インタビューしようにも、港に人影はなかったですし。
ここから「久之浜町」に向かう。
ナビで「久之浜町」と入れると、「久之浜町」もそれなりに広いことが解った。「久之浜町久之浜」というのが沿岸部であるのが解ったので、とりあえずそこを目指して走り出した。
すると途中から、母が騒ぎ出した。
「マキコ! 家があきらかに津波で倒壊してるわ!」
しかしわたしはそれどころではなくなっていた。
母のギャーギャー騒ぐ声を聞いているだけで、風景など目にする余裕はない。
というのも、周囲を走ってる車の運転が「気が狂ってる」としか言いようがないんである。
「えっ、この状況で右折? 勘弁してよ!」
などと内心絶叫。 つねに「高いメモリ使用率」状態。
栃木の運転って地方にありがちに荒くて、一般道なのに「時速100km」を出さないと流れに乗れないバイパスもあった。また、たまに行く都内でも、夜に首都高を走っていると、飛ばす車はいた。でも、そういう人たちって普通にテクニックがあるから、こちらは「抜かすなら抜かして下さい」とお任せしてればよかった。
しかしここは違う。あきらかに、常軌を逸している。
わたしが状況判断をしないと、母を巻き添えにして死なせてしまう。
母は車窓の風景にパニックになってるけど、わたしはハンドルキープしてるだけで本当に精一杯だった。
すると途中で気づいた。
あ! 信号が、ついてない。
消えたままだ。ああ、全部、消えている。
完全に統制のなくなった道を、相手の呼吸を読みながら走る。
ようやく目的地付近に到着した。たぶんわたしは、青ざめていたと思う。しかし、本当の目的地には、「立ち入り禁止」という意味なのだろう、コーンがひとつ立っているだけで 道がふさがれていて、行けない。
手前の住宅街の駐車場に、勝手に駐車する。
久之浜町は、確かに、津波の被害は受けていた。住宅が「転んで」いる。瓦屋根のほうが下になって、土台のほうが上に来たり、している。人の気配は、すでにない。避難所などに居るのだろう。
母は怯えていて、「怖い、怖い」と言い出した。
被災地をデジカメで撮影するのは気がとがめたが、ここは勘弁してもらうしかない。使い道もない個人的記憶のメモのために、母の「怖い」連発を無視してデジカメで風景を収めつづけたが、やはりここでの感想もまた、
「いや、これなら宮城や岩手のほうが津波の被害としては酷い。報道される写真で見る限りだけれども」
というのが実感だった。
気になったのは、なぜかビニールに包まれたまま放置された衣類などが瓦礫のあいまにおきざりにされていること。
「このビニール、なんだろう?」
これは長く疑問に残った。いまなお、解らない。とにかく、あちこちに、「ビニールに包まれたままの衣類」が放置されているのである。
ほとんど人の気配のない浜辺の町を、パワーシャベルを扱う作業員が瓦礫撤去の作業を続けている。
すると浜辺に、釣りをしてる五十代ぐらいの男性を見つけた。
驚いた。
さすがにキャッチ&リリースだろうと思われたが、あるいは別に目的があってのことかなとも考え、 声をかけようと倒壊しかけた住宅のあいまを歩いていると、母に腕を強く引かれた。
「帰るわよ、マキコ! 危ないわ」
母というのは本当に困り者である。
わたしは今回、福島に来るのを、母の意向も汲んで決めたという経緯がある。福島だけどうして見捨てられるのだと、電話口で泣いていたから。怖いというなら、現時点で福島第一原発の80km圏内に留まるほうがよほどわたしには怖いと思うし、おそらく、全国の大半の人もそう感じると思う。だが、そういう場所に娘を迎えて喜んでいるのは母なのだ。
津波の被害は、確かに見て解りやすい。だが、わたしは原発のほうが、もっと怖い。なぜ解らないかなあ?
しかし仕方がないので、車を停めた場所まで引き返す。
疑問はなかなか解けない。
それにしてもなぜ、あの場所に枢機卿が?
中通りに戻ると、地震で大きな被害を受けた店舗が解体中だった。
助手席に乗っている母に、思わずつぶやいた。
「なんだかこの店、津波の被害に遭ったみたいだね」
すると母は、建築関係が本業なので、声を荒げた。
「酷いでしょう? このやり方、どう見ても素人なのよ。本来だったらまず建具を外して、屋根を外して、外壁を外していって、それから骨組みにかかるのが本当なの。それなのに滅茶苦茶だわ。おそろしい。どうしてバックホーだけでぶち壊しているだけなのかしら」
なんだか荒れている、全体的に。
実家に戻ってから調べた。
久之浜町の正確な位置を、である。
ずいぶんと宮城寄りに北上した感じがあった。
そして、ようやく意味を理解した。
久之浜町は、福島第一原発から31km地点だった。
どうりでみんな、狂ったような運転をするわけである。
解らないよなあ、残された人間には。
どうして30kmと31kmの違いがあるのか。
政府が国民の安全性を十分に考えて、ある程度の余裕を持たせた避難指示範囲を設定してくれてるなら納得もいくだろう。だが、あまりそうとは言えないようにわたしは感じる。そして漁業で食べていた町なのに、その漁業まで禁じられて身動きできなく取り残されたら、それは荒れる。どうやって食べていけばいいというのだ。まだ、被災地には寄付金すらも分配されていない。
薄々感じていたこと、「福島は国に“棄民”されたのではないか?」という思いが、ますます強まった。
後日、わたしのつけていた初心者マークが後方だけ、悪戯されて消えていた(そう、お忘れだと思いますが、わたしは去年の七月に免許を取ったばかりの初心者です)。こんなことをされたのは初めてだった。
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